INTERVIEW at O GALLERY
1999.2
インタビュアー:加島牧史

−何べんも、何べんも繰り返し仕事させてもらっているうちに、最
近ここ2年くらい、なんでこのイメージにこだわるんだと思うよう
になって。実は家が蜂屋だったんです。季節労働者なんですよ、蜂
飼って。夏は北海道に行って、春は伊勢に行って、あとは地元の三
重に帰って。この3ヶ所を1年のサイクルで廻って行くんですよ。
家族全員で仕事をしてますから、子供の頃から連れられていたんで
すよ。朝仕事に山に出かけて行って、子供ですから放っておかれる
んですよ。何もする事がないから一日ボォーと山の中にいるんです
よ。1日のサイクルの中でだんだん風の匂いが変わっていったり、
光の感じが変わっていったり、活動的になってまた収縮していく花
とか。なにか有機的なイメージが形成されて、それがまた消えて、
また現れてくるサイクルとか。そんな感覚が私の原風景なのかなぁ
って最近思い始めたんですよね。たぶん今自分が何を感じて、それ
をどう認識するのかってことは、どうしても不安であったり、曖昧
であったりするんですけど、モノを作っているときは、自分自身は
今こんな感じで、自分のイメージってのはこういう所から出てきて
いるってことがだんだん明確になってきているんですよ。絵を描い
てそれで自分を再認識することで、はじめて自分がここにいるとい
うこと、なにか存在の証明をしている感じがあります。ですから、
今こだわっているひとつのテーマの中でやっていく感じはその現れ
だと思います。

−制作の時は、作っている自分を客観的に見る視点をできるだけ持
ちたいと思うんですよ。そうじゃないと、どうしても自己満足的な
ものの見方しかできない気がするじゃないですか。でもなかなかそ
の視点を持つのは難しい。とにかく制作の時点では今の感じている
こととか、今考えようとしていることをストレートに画面に残した
い。そういうことぐらいしか考えられてないような気がします。

−作品のイメージは子供の頃のこととか、日常生活の中から生まれ
てきているんだと思うんですが、日常生活の延長線上では絵が描か
れへんのですよ。ご飯を食べるように絵は描かれない。絵を描く行
為ってのは、なにか儀式的なニュアンスがあって、絵を描くために
ボルテージを上げていって「ハイ行きましょう」ってアトリエに入
って制作するんで。多分自分を納得させる方便だと思うんですよ、
アトリエで制作することが。自分の中で儀式的なニュアンスを持と
うとしているのは、それが儀式であるかどうかはどうでもよくて、
そうしなければ制作のボルテージが上がっていかないだとか、その
ためのコントロールの方便として儀式的なニュアンスを持とうとは
かなり考えていますね。僕にとっての日常とはモノを作る準備段階
としての日常としか考えていないように思うんです。

−制作している段階では、かなり息苦しいんですよ。他の見方を自
分が求めているとか、もともと自分の中に何か違う要素があるんだ
ろうなってことはわかります。おそらく方便として儀式的なニュア
ンスを持ってアトリエに入って、その反復してモノを作っていって
当然1回じゃうまくいきませんからその反復の中で自分のイメージ
を明確にしていって。頭の中だけじゃなく、実際に形に起こしてみ
て、またちがう、こりゃちがうと、形を変える。やり直しとか。そ
ういうことを儀式的に考えることが日常化してしまっている矛盾点
とかあるような気がします。それはおそらくすごい悲しいことやと
思うし、しんどいし。でもそうしないとリアリティをもって制作で
きないという矛盾点がありますね。自分のことを客観的に見るため
には、かなり緊張感がいるんです。できるだけ甘えをなくしてみた
りとか、逆に思いっきり甘えてみたりとか。他人から見られている
自分の像はどんなんやとか。自分が見ている自分との像がどのくら
いずれているんだろうとか。そういうふうに見ることに緊張感があ
ったり、恐怖心があったりするんです。別に神聖な作業とか思って
いないんですけど、なにか自分のことを方便として神聖化してしま
うと自分のことがちゃんと見られない気がします。

−変わっていくんですよ。当然制作のプロセスの中で描けば描くほ
ど変わってしまうんですが。描かざるをえない矛盾点であるとか、
制作のこととか、美術のこととか、自分のこととかを日常の中で考
えているんですけど、それを具体的に確認する作業として、アトリ
エに入るわけですよね。日常の中でものを見て、当然、自分のリア
リティを画面の中に反映させるわけですから。当然リアリティって
のは日常から生まれてくるものですよね。ですから制作っていう行
為にしても当然日常的になったほうが当然リアリティがよりストレ
ートに反映されるはずなのに、自分の中でその制作の行為を儀式化
しないと、逆に制作のリアリティが保てないという矛盾点であると
か。個人の日常も、世界も、ひとつの社会だと思うんですよ。絵を
描かない人もこういった問題を抱えているんだと思うんですよね。

−自分はかなりしつこいような気がします。もとのイメージが同じ
であっても時間の経過の中で当然見え方も変わるでしょ。ほんまに
これやったのっていって、例えば五年経ってみて、同じイメージを
焼き直してもう一度やってみるわけです。もっと短いスパンで考え
ても何か月間の制作のあいだにそのひとつのイメージを追っかけて
いるわけですけど、自分の中でなにか納得できない部分があって、
それは展覧会場で人がみても全然わからないのに、自分の中では違
うとか。制作の時点ではせめて自分だけでもわかってあげたい。そ
のへんのことはかなりしつこいような気がします。そのへんのこと
でワーワーとやっているんだと思います。

−おそらく何か具体的なものがあって絵が変わってきたんじゃない
んです。反復してやっているうちに自分の中でだんだん飽和状態に
なって、必然性として変わらざるを得なくなったからだと思うんで
す。

−当然一人の人間としてもその環境によって、その人の役割も変わ
るし、そのキャラクターも変わるわけですから。ほんまの自分が他
に別におって、絵を描いている時の自分、学校に行っている時の自
分、家庭の中での自分、いろんな自分がいてますでしょう。自分が
べつべつにそれぞれあるのか、比較相対化した自分すべてが自分な
のか?自分を切り売りして、その他の自分を保っているのかはよく
わからないですね。すくなくとも僕は、できれば同じにしたいんで
す。だってそのほうが楽やから。今、ギャラリーで話している自分
と、学校で教えている自分とかを分けてしまっていると考えてしま
うと、自己崩壊を起こしてしまうような気がしてしょうがないんで
す。「ほんまの自分って一体何?ナニ?」って。ほな、絵を描いて
いる自分がほんまもんの自分?なんて仮に聞かれたら、それは一部
であって全てじゃないはずなんですね。当然日常もあるわけですか
ら。できればこれらを一緒のものにしたいんです。客観的な、絶対
的な「らしきもの」の自分の存在を無理矢理作って、ものを見るん
じゃなくて。そんなのを全部ごっちゃにできれば楽やろうなって気
がします。できないんですけどね。