フリートーク 高木修+館勝生
(48回企画)シリーズ 空間のビカミングE
「瞬時的絵画の生成」館勝生展
1993.11.23−12.18

高木
今回はシリーズ「空間のビカミング」の第6回展として、館勝生さ
んの絵画を展示しています。館さんは1964年に三重県に生まれ
まして、1987年に大阪芸術大学芸術学部美術学科を卒業されて
います。1985年ぐらいから大阪を中心にしています。館さんは
いろいろなところで活躍なさっていて、既に多くの評論家が館さん
の絵画を分析していますが、絵画の新しい意味が館さんの絵画の中
にあるというようなことが言われています。まず今までの作品をス
ライドで見て、それからお話に移りたいと思います。それではよろ
しくお願いします。

(スライド上映)

高木
館さんのインタビュー記事とか文献を読んでいると、イメージにつ
いての言説が多いですよね。ですから今日は最初に、イメージとい
うものを館さんがどのようにお考えになってるかということを伺い
たいと思います。イメージと形象の問題を少しわかりやすくお話し
いただいて、そこから話を進めたいと思います。「美術手帖」で、
館さんの絵画についてのインタビューがありましたね。その時にも
イメージということについて述べられていますけど、そのことをお
話いただけますか。


私はいわゆるフォーマリズムの絵画の文脈ではない部分で制作して
いるわけですけども、イメージということをキーワードにこの10
年くらい作品を作っているんですね。そもそも何ていうのかな、美
術史の中で…話が大きすぎますか?

高木
(笑)いやいや。


美術史というか絵画史の流れの中で自分の位置づけをまず明確にし
たいという意識があるんです。ぼくが絵を始めたのが80年代で、
85年から展覧会で発表するというかたちで制作してきました。そ
の頃、いわゆる日本の美術の状況というのは、ニューウェーブとい
う作家の私的な価値観をそのままストレートに作品に投影するよう
な時代背景というか、そんな頃だったんですね。で、そういうぼく
らの周りのちょっと年上の方が制作しているのを端から傍観してい
たというか、ポカンと見ていたんですけども、その中で私的なイメ
ージというか、個人的な価値観だけに基づいたイメージをそのまま
画面に表現するだけでは、その作品は普遍性を持ち得ないのではな
いかというようなことを思ったんです。やはり、作品を制作して発
表をするわけですから、第三者の価値観と自分の価値観をすり替え
るというか、同調し合うというか、それが根本的な目的であるわけ
です。ただ単に作家の、送り手側の私的なイメージというか価値観
だけを、「どないやーっ」と言って受け手の側に押しつけるだけで
は、ビジュアルコミュニケーションとしては不完全ではないかとい
う疑問があったわけです。それはただ単に第三者の価値観に媚びを
売るとか、受け入れやすいようにするとか、そういうような単純な
考えではなくて、絵画のモチーフというか要素、絵画を絵画として
成り立たせている線であるとか、面であるとか、絵の具の物質感で
あるとか、そういう絵画の要素の中で自分のイメージを読みとって
もらうということを意識して制作を始めたんです。70年代までの
非常にフォーマルな、いわゆる禁欲的なモダニズムの中で、イメー
ジのような要素をなくして絵画として自律するという方向にあった
わけですが、自律するということから言うと、もう到達し得たと思
うんです。そして80年代になってニューペインティングのような
ムーブメントが起こって、いわゆる制作する衝動という次元にまで
戻ったと思うんですよ。でも、ニューペインティングが日本に入っ
てきた時に、宗教的なテーマであるとか、生とか死というようなテ
ーマは欧米のようなリアリティがおそらくなかったと思うんです。
そこで日本のニューウェーブと呼ばれた作家は、すべて個人のイメ
ージだけに基づいて表現しようということになった気がするんです
よ。まあ、実際そういうふうに(その当時の作家が)言ってはるか
ら、そうなんやろうと思うんですけど(笑)。そういうふうにスト
レートにイメージを表現していたのであろうと思うんですけど、先
ほども申しましたように、それを「こんなん好きやねん、どないだ
ー」と言って出すのではなくて、もうちょっと普遍的なイメージと
してすり替えるというか、抽象的ですがそういうイメージのあり方
を絵画の中でできないかと思ったわけです。

高木
その普遍的なイメージっていうのは、もう少し具体的に言うとどう
いう感じですか?


たとえば社会的な同時代に起こっているテーマを扱うとか。それも
ひとつの普遍性を持ち得ると思うんです。たとえばエイズの問題で
あるとか、フェミニズムの問題であってもいいし、日本の場合だっ
たらPKOのことでも何でもいいですけど。でもぼくの意識の中で
は、そもそも作品というのは社会的なモチーフを使うんではなく、
作品を社会化することが目的だと思うんですよ。それが普遍化する
ということになると思うんです、ただ単に同じイメージを共有する
ということではなくて。

高木
でもニューペインティングの作家たちも、自分の作品を社会化しよ
うとした部分もあるんじゃないですか。


それは作品を発表する以上は、そういうような要素は必ずあると思
うんです。ただその要素の度合いが高いか低いかで。

高木
イメージを出す段階で、どういう作業をするんですか。先日お聞き
したときに、木炭などでデッサンをしてから色を塗っていくのでは
なくて、このぐらいの小さな紙にボールペンでイメージを作り出す
というようなことをおっしゃっていましたが。


イメージというか形態だけなんですけどね。イメージの中の形態の
要素だけなんです。作り出すというほどたいそうなものでもないん
ですが。エスキースを作ってそれを拡大して大きなタブローを作る
とかだったら、それは単なるイメージの焼き直しでしかない。「こ
んな雰囲気の作品を作りたい」というふうに描き出したものが、お
そらく違うものにすり替わってしまうと思うんですよ。エスキース
のようなデッサンを一遍描いて、また「よいしょ」と大きい絵を持
ち出して描くのでは、イメージが衰退してしまうというか。

高木
デッサンを何枚もやって写し替える段階で、イメージが欠落してし
まうということですか。


やはりイメージというのは生ものだと思いますから、放っておけば
腐っていくと思うわけです。それを新鮮のままに画面に定着させる
ためには、短い時間に定着させなければいけない。エスキースなん
か作ってたらだんだん腐っていってしまうというか。制作の時間を
多くとればとるほど違うイメージがまたどんどん出てきて要素が多
くなってきますから。ひとつの画面の中でいろんなものがごちゃま
ぜに寄せ鍋みたいになってくると、簡単な話、収拾がつかなくなっ
てしまう。それでも一瞬にできあがるわけと違いますから、一時間
なり二時間なり三時間の中でも、違う要素というのは画面の中から
出てくるんですよ。それを「やろうかな」と思ってしまうと失敗し
てしまって、またキャンバス剥がしてやり直すわけです。

高木
違うものにスライドしてしまうっていうことですね。


制作の中で出てきた別のイメージとか別の捉え方というのは、次の
作品に持ち越すとか、次の作品を描く時の、基のイメージになって
います。

高木
館さんの絵画っていうのは、時間のイメージがすごくあるという感
じがします。時間というのは、たとえば「ゼノンの矢」じゃないけ
ど、停止している矢の感覚ですね。ですからタイトルでも瞬時的っ
ていう言葉を使ったんですが、落下するイメージがあるという感じ
がします。落下して、そこに止まっている感覚ですね。館さんもお
っしゃったように、生の感覚っていうのが時間というものと結びつ
いているんではないかという気がします。生の感覚、つまり時間そ
のもの、瞬間そのものを捉えることが色彩の官能性を生み出してい
くということだと思います。館さんは、自分のイメージをスライド
させないで、常にひとつのイメージで完結させてしまうというか、
そういうところがあると思いますが、やはり時間ということをかな
り意識していますか。


時間というのをどのような意味でおしゃっているんですか。制作す
る時間なのか、内容の中の時間性っていうことなのか。

高木
両方ですね。


内容の時間性ということでしたら、たとえばひとつの形態が生成し
消滅するとか、その中に時間的な経緯というのは当然あるわけです
よね。何と言うのかな、いろんな要素がひとつに固まっていくわけ
だけど、まだ固まってないっていうか、かたちのあるものが消滅し
ていくのだけど、全部はなくなっていないとか、そのひとつのもの
が崩れていく過程の中で…。

高木
中間領域みたいな感じですか?


そうですね。そういう要素を時間的なものというふうに言うのであ
れば、それは意識してやっています。

高木
でもそれは、制作の時間の中にすでに含まれているんじゃないです
か。つまり、制作の時間と絵の中の時間を明確に区切るんではなく
て。


いや、区切ってはいないです。ただイメージを新鮮なまま定着させ
るのには時間を短くしないといけないと言うか、描けば描くほど悪
くなるようなことがあると思うんです。

高木
簡単に言ってしまえば、ある時間に一気に描いてしまう。


簡単に言い過ぎと思いますけど(笑)。そう言われてしまうと身も
蓋もないというような感じがしますけどね。

高木
いや、いい意味で言っているわけです。制作が新鮮に感じるんです
ね。ステイン(染み込み)なんかではなく、独特の…。さきほど館
さんはストロークがないっておっしゃいましたけど、逆にストロー
クをすごく感じます。ストロークの捉え方が違うんでしょうか。


描き出す時には全部ストロークなんですよ。立てて描いていますの
で、絵の具が流れてストロークがだんだん無くなってくるんです。
さきほどのスライド上映の時にお話したんですが、あまりストロー
クばかりになってしまうと空間の中に形態が溶け込まないんです。
ストロークばかり目立ってしまうんですね。「それはちょっとかな
わんな」と思って。それをやると背景と完全に隔離されてしまって
形態に完全に意味が出てしまうと思うんです。よく花とか蝶とか、
ひどい時には蛾とか蚤とか言われた事があるんですけど、それは先
ほど申しましたイメージを形容するひとつの要素であって、なにも
蚤とかを描いているわけではないんですよね。そういう意味で、も
う少し画面の中で形態を空間、あるいは色面に溶け込ませたいとい
うことです。

高木
形態が背景に溶解するというか、同じレヴェルで捉えたいっていう
感覚ですね。そのためには、縦のストロークが意外に効果的という
か。手前側にも来ているし、また背景にも行っている感じですね。


そうですね。

高木
それでは、なにか質問があればお願いします。


ぼくが質問してもいいですか(笑)?テキストに「日本特有の厚塗り
をもって色彩を表す」ということを書かれてているんですけど、高
木さんは日本特有の絵画というのをどのように思われているのです
か。

高木
たとえば、「へばりつくような塗り」なんていう言い方があるんで
すけど、これは読売新聞の菅原教夫さんが辰野登恵子さんについて
書いた文章なんですね。そういうへばりつくような絵画とか厚塗り
の絵画っていうのは、もう20年も前から公募団体展でたくさん見
てきたんですが、その当時は日本では、ステインとか、薄塗りの絵
画っていうのはほとんど見られなかったわけです。だからそういう
日本独特のへばりつくような塗りっていうものから、館さんの絵画
は解放されているっていうふうにテキストに書いたんです。

会場A
画面の中に文字が入っていますよね。タイトルですか?この文字っ
ていうのは館さんの中でどういう位置を占めているんでしょうか。
文字がなぜ入らざるをえないか、そういう必然性みたいなものがあ
るのかどうか、その辺をお聞きしたいんですけど。


タイトルを画面の中に入れているわけですけど、まずひとつにタイ
トルというものもイメージを共有するひとつの要素であるというこ
とです。つまり形であるとか、色であるとか、絵具のマティエール
であるとか、それらと等価の要素なんです。ですから、等価の要素
だから画面の中に入れているという意識なんです。

高木
絵とサインが、同じレヴェルで作られてるっていうことなんですよ
ね。たとえばモンドリアンの作品の中では、サインも重要な位置を
占めていると言われています。それはサインそのものではなくて、
モンドリアンがどこにサインを入れるかっていうことで、Pという
文字が画面のいろいろなところにあるんですね。それとちょっと感
覚が似てるかなっていう感じもしますが。館さんのタイトルに使わ
れているのは、聖書の言葉ですか?


はい。でも、全部ではないんです。今回の作品は全部そうなんです
が、だいたい9割方、聖書の言葉から採っています。どのような尺
度でそれを選択しているかというと、暇にまかせて聖書をパラパラ
めくっていると、なにか自分の中でひっかかる言葉があるんです。
(言葉の)雰囲気がなんとなくいいなということでもいいし、それ
を全部ピックアップして付けているだけなんです。ですから別にキ
リスト教の宗教的な内容とか、そういうことではないんです。ただ
単にその言葉の持っているイメージが、自分の持っている絵のイメ
ージと同調するから選択しているだけの話なんです。

高木
タイトルは最後に付けるんですか?


絵ができあがってから入れる場合もありますけど、ほとんどは途中
で入れています。

会場B
影響された作家はいますか?


あまり作家が好き嫌いだけで言うのはいけないかもしれませんが、
たとえばバーネット・ニューマンの作品で、「崇高」という言葉を
キーワードに作った一連の作品とか。今年初めて実物を見たんです
が、何か拝んでしまいそうな雰囲気があって。いわゆる後期抽象表
現主義とか、ミニマルアートなどのただ単にフォーマルな文脈だけ
の理論的なものだけではなくて、画面の中に一本の「ジップ」が入
っていることで非常に神秘的な、いわゆる「崇高」なイメージがス
トレートに、しかも単純なかたちでわかりやすく表現されていると
思うんです。理論的な部分からの解釈だけではなく、内容の強さが
ある作品に強く惹かれます。そもそも形式というのは、内容を表現
するための手段と思うんです。その手段が目的化してしまうと本来
の目的とは何だったのかと問題点がずれてしまうと思うんですね。
やはり目的というのは内容を画面に定着させることだと自分では認
識して制作をしていますから、バーネット・ニューマンのように手
段と目的が明確なかたちで画面に表現されている作品は強いという
印象があります。
(1993.11.23)