アーティストインタビュー 美術手帖 1993.4月号

<なんでも許された時代>

−館さんが絵画を始めたのはいつからですか。

コンテンポラリーな絵画は大学の3回生の頃からです。ちょうど8
0年代の中頃で、表現手段は多種多様でどんなものでも許される時
期になっていましたから、自分自身の中でリアリティーを感じられ
る手段として、高校の頃からやっていた油絵を選択したんです。そ
の前の70年代と違って当時は画面に形があっても抵抗がなくなっ
ていた時代だったから、比較的素直に入れましたね。

−描き始めた頃の方向性はどういったものだったのでしょう。

80年代、ニュー・ウェイヴと呼ばれたムーブメントが全盛の頃で
したから、個人的な価値観を前面に押し出した作品が主流で、一種
の憧憬に近い感覚でそうした状況に接していました。けれど、自分
でも作品を制作していくにつれて、個人的な価値観、趣向性だけに
作品を位置づけすることの限界を意識するようになりました。

−実際に今のスタイルになる迄は、どんな経緯があったのですか。

なんでも許されていたから、はじめは逆になにを描いていいのかわ
からなかった。それでとりあえず、絵画史の中で扱われてきた最も
ポピュラーなモティーフのひとつ、「裸婦」を描き始めたんです。
でもそれは単なるきっかけだったから制作を続けていく中で、「裸
婦」という形態の必然性が消えて、ストロークやタッチだけで画面
を構成するようになり、そのストロークの集積の中から現在のよう
な有機的な形態が出てきました。

<ヴォルテージの高まり>

−欧文タイトルがいつもつけられていますが、特別な意味があるの
ですか。

タイトルのほとんどは聖書からの抜粋です。ただ、僕の場合タイト
ルはイメージを形容するためのひとつの要素にすぎないから、宗教
的な題材を扱っているわけではないんです。だからタイトルの言葉
自体に具体的な意味はない。聖書からひっぱってくるのは信仰心か
らではありませんが、個人的な価値観を公の社会的な価値観にすり
かえる制度としての宗教の力には関心があるんです。

−普段はどんなペースで制作するのですか。

150号くらいのサイズを、3,4時間で一気に制作しています。
生成されるイメージをできるかぎりストレートに画面に定着させる
ためには、当然短時間に作品を仕上げなければならないと思うんで
す。制作する時間的な経緯が長くなれば、描く瞬間にあるイメージ
が衰退してしまうのではないかという恐怖心が常にあるんです。た
だ、一回の制作でイメージがストレートに画面にできる事はまずあ
りませんから、1点の作品に、3,4回キャンヴァスを張り替えて
制作していますけど。

−かなり直観的な作業?

そうですね。一番怖いのは最初の一筆で、ねらいを定めて萎縮しな
いように勢いよく筆を置くのですが、絵具の滲み方などにかなり左
右されます。描き直しがきかない緊張感がある。面や線は結果とし
て出てくるもので、どちらかというと描いていく時は、削って削ぎ
落としていくような感じです。

−訓練が必要ですね。

技術的な訓練じゃなくて、メンタルな部分での訓練は必要ですね。
どれだけヴォルテージを上げられるかという。無駄なストローク一
つでイメージが変質してしまうから、制作する態勢になるまでのヴ
ォルテージを上げるのに、エネルギーのほとんどを消費しているよ
うな気がします。

<刹那のダイナミズム>

−館さんの作品は、概して色が渋めのものに限定され、画面の白い
部分とコントラストを生んでいますが、光と闇といったようなもの
を表しているのでしょうか。

作品とは具体的に関連がないかも知れませんが、二つの価値観の相
対化した関係を、描きたいという気持ちがあるんです。人の価値観
が変遷していく過程には、ある新しい価値観が生み出される一方で
その背景にそれ以前の価値観を崩壊させたり、すり替えたり、忘れ
るなり、そういったふりをさせるような別の価値観が存在します。
エネルギーの絶対値は同じでも相反する方向性をもった二つの価値
観の相関を、自分自身の中に素直に受け入れたいという個人的欲求
があるような気がします。

−白地を残したりするのも、今の話と関連がありますか。

白い地を残すのは、画面に流動的な部分を残したいからです。色の
「明」と「暗」、イメージの「生成」と「消滅」の刹那のエネルギ
ーが対峙した時のダイナミズムとか、緊張感は画面の中にもちたい
と思っています。だから画面が固まってしまうとだめで、制作して
いる時が一番動きがあるから、それを瞬間として残したい。

<イメージの在り方>

−近作を見ますと、画面に奥行きが生まれつつあるように映ります
が、現在の問題意識はどこにあるのですか。

今は空間の中に形態が「気配」として溶け込むよう意識して制作し
ているから、3次元的なイリュージョンは、結果として出てきまし
た。要はイメージをどれだけストレートに画面に表現し、定着でき
るかいう事が、制作のプロセスの中での問題意識です。イメージを
表現するのに依存する要素というのは、色々あるわけですけど−例
えばマチエール、ストローク、形態、色彩とか、それらの中でどれ
か一つに依存する割合が高くなると、当然その部分だけがクローズ
アップされてしまう。ストロークや、それに伴うマチエールに依存
しすぎると「花とか昆虫を描いているんですね」という事だけにな
ってしまうんです。その時依存する割合の高い要素が、イメージを
形容する一要素として以上に強調されて、本来表現したいイメージ
から逸脱してしまう。画面の構成要素全てをイメージを形容する要
素として同価値に並列させて、それによって核となるイメージを表
現したいと思っています。

−館さんが、絵画を通して本来表したいイメージというのはどうい
ったものなのですか。

その核になるイメージというのは当然個人の表現ですから、作家の
個人的な経験とか価値観とか同時代的な意識が根底にあるものです
けど、僕が作品の中で意識しているのは、イメージがどのようなも
のであるのかという事ではなく、絵画におけるイメージの在り方、
その仕組みを意識しています。イメージを言葉にする時に、「〜の
ようなイメージ」といったように「〜のような」と装飾する言葉が
つきますよね。でもそれはあくまで「〜のような」であって、「イ
メージ自体」にはなり得ない。例えばりんごを意味づけて形容する
のに「赤い」とか「丸い」といった要素がいろいろあるけど、それ
らどの要素をとっても、「りんご自体」の表現にはなり得ない。僕
が絵画の中で位置づけたいのはこの「イメージ自体」です。作家の
個人的なレヴェルを超越して普遍性をもち得る「イメージ」。

−そもそも普遍的なイメージというのは何をさすのですか。

歴史的な流れを見ると、抽象絵画の歴史においてはイメージの問題
は排斥され80年代に入ってからは新表現主義によってイメージの
復権がなされた。一方欧米と比較して宗教的、社会的共通項の希薄
な日本の場合、イメージの表現というものが、作家の個人的なイメ
ージの、一人称的な告白の表現にすり替わってしまったんです。僕
は、作品の強さというのは絵画の構造や理論の強さだけではなく、
イメージの普遍性によってもたらされる部分もあると思う。だから
個人的なイメージの表出だけではなく、イメージの普遍性をもち得
る作品を意識しています。

<共通感覚>

−館さん自身にとって普遍的なイメージの獲得は何を意味するので
しょう。

絵から何らかのイメージを持ってもらって、それで第三者とコミュ
ニケーションを図るのが僕の一番の目的なんです。80年代の学生
の頃は、自分もまわりも非常に個人的な自分の価値観だけで作品を
つくっていたけれど、実際それだけでは説得力が少なかった。もち
ろん核となるイメージを受け手に伝えられるかというのが大命題で
すが、そこで自分の価値観だけを出すのではなくて、それを公の価
値観にすり替えるような「共通感覚」が必要だと気づいたんです。
実際第三者が作品をみる時は、核となるイメージではなくて、その
まわりの絵画要素を見、判断して、それぞれに僕とは違ったイメー
ジを抱く。そこで個人的な価値観と第三者の公の価値観がすり替わ
って、コミュニケーションが成立するわけです。だから画面の中の
形態、色彩、ストローク、マティエールといったものだけではなく
、絵画における形式性や作家自身の社会性、現実性、同時代性を意
識して制作し、それが作品に反映されれば、みる人とより一層共通
感覚がもてる。一つの作品の幅がどれだけいろいろ解釈されるか、
その幅が広ければ広いほど、作品の意義はあるはずだし、それだけ
作品を通してコミュニケーションがとれているという事。それが僕
の目指している部分になっています。
(1993.2.2)