インタビュー
ART&CRITIQUE No.14 1990.11

<いらない要素を消す>

 89年までは、イメージを表現するのに絵の中の形態をどういう
ふうに描いていくか、が問題だった。このころはストロークも多い
し、絵の具も厚い。最近みて、自分でも「よくこんなにたくさん絵
の具を使ってたな」とびっくりしたくらいです。
 「double−edged sword」を制作していたあた
りから絵の具がだんだんと薄くなっていった。86年からテーマは
全部同じなんだけれど、形態をどう処理していくか、イメージをス
トテートに表現するのにどのような形態がいいか、ということを考
えていたんです。
 イメージを何かに依存させて表現するわけでしょ。形態とか、色
彩とか、絵の具とか。それが依存していたものが違う意味合いに変
わってきてしまったと感じるようになったんです。たとえば形態だ
ったら、僕の場合羽にみえるとか葉だとか。そういう意味のイメー
ジでは全くないのに、違う方向に拡散していってしまった。絵の具
をたくさんのせたら、絵の具の物質的な面ばかり強くなったり、本
来イメージを形容するものである形態、色彩、それが違う方へどん
どんいってしまった。作品として強さ−視覚的な強さじゃなくて、
内容的なイメージの強さ−がかなり薄れていってしまったんです。
 その問題をどういうふうに解決していったらいいかな、という事
を考え始めた。なるべくいらない要素を少なくしていこうというこ
とで、「double−edged sword」になった。これ
は極端にやり過ぎてしまったから、もう少し面ではなく空間として
形を消していこうと考えた。それで「wedding banqu
et」を制作したんです。これはまだストロークが残っているし、
形態もある程度残っているんだけれど、できるだけ「気配」として
イメージを表現したい、という気持ちがあった。
 で、今度は空間として処理していく時に、形態じゃなくてストロ
ークがちょっと鬱陶しくなってきた。じゃあ、ストロークを消しま
しょう、ということで「rose bud」になった。イメージを
表現するために今まで依存していた要素のうち、無駄なものをだん
だん省いていったわけです。いらない要素が少なくなってきた分、
イメージが強くなったわけじゃないけど、ストレートに伝わりやす
くなったと思います。
 今度の作品は、ストロークを一旦おいて、上らそれを押さえてい
っているんです。ストロークをおいていかないと形が浮き上がって
こないので。まわりを削っていって、形を画面から出すタイプなん
です。石彫みたいなものかな。普通は形の方に絵の具をのせて描い
ていくんだけれど、僕は周りの背景を奥に押していく。それには、
後で消すにしても、ストロークがなければね。

<共通感覚>

 イメージは、あくまでイメージであって、それを言葉にする時に
「花のような」とか、「羽のような」とかいうふうに形容詞をつけ
る。でも、これは「〜ような」であって、僕のイメージは羽でもな
んでもないんです。全体で一つの作品であるわけでしょ。図柄とい
うのはそのイメージを表現するための単なる要素であって、他にも
色彩や絵の具、タイトル、サイズなんかも、イメージを形容する強
さの度合いは同じなんです。ただ図柄を描いているからそれがどう
しても強く見えてしまう。だから消そうという意識が生まれたんで
す。
 「イメージ」というものを説明する言葉は、何もないんです。あ
り得ないような気がする。いろんな要素を形容して、それでそのイ
メージを表現する。本来「イメージ」というのはそういうものだと
思う。
 リンゴを例にとると、リンゴを意味付けて形容する言葉ってたく
さんあるでしょ。果実の一種とか、どんな成分とか、赤い、丸い、
酸っぱい…。でも、それは「リンゴを形容する言葉」であって「リ
ンゴ自体」ではない。形や色はリンゴを形容するイメージなんだけ
れど、僕の考えている「イメージ」ではないんです。僕の言う核に
なるイメージは、リンゴそのものが問題になっているわけです。そ
れを表現するために、「丸い」とか、「赤い」とか。「食べたら酸
っぱい」とか、そういうもので共通感覚を観る者に示すわけでしょ
うね。それで作品としての強度が保てる。
 作品自体の強さは、絵画構造や理論だけの強さのみではなく、イ
メージの強さもあると思う。構造や理論は手段であって、作り手は
手段と目的をすり替えてしまったらいけない。その奥に普遍的な要
素が絶対あって、それがイメージだという気がするんですよ。ただ
それを表現したり解釈したりするやり方が違うだけであって。
 一点の作品があって、観ていいなと思う人が三人いたとするでし
ょ。受け取り方は三人三様で、描いた本人も違うことを考えている
んだけれど、それを結ぶ物が作品なんです。どこをいいと思ってい
るのか、言葉でそれを表すと、例えば「マチエールが…」とかいう
ふうになってしまうけど、その作品を「いい」と言わしめている要
素は、その作品を観た人が感じる共通感覚だと思う。それで繋がっ
ているんじゃないかな。僕が問題にしている「イメージ」というの
は、その共通感覚になり得る普遍的なものの事です。作品の強度は
この共通感覚を持ち得るかどうかで決まると思います。
 僕の場合、白いキャンバスに向かった時にまずはじめにイメージ
がある。それはその前の作品を描いた時に、プロセスの中で出てき
たものなんです。描いている途中に今描いている作品とは違うイメ
ージが絶対出てきてしまうものなんです。でも、それと今描いてい
る画面を一緒にしてしまうわけにはいかない。イメージをストレー
トに伝えるために無駄な要素は排除しようとしているんだから。そ
れで制作過程で出てきたイメージは、次の作品に先送りすることに
なる。
  もちろん核になるイメージというのは、今までの作品全てに共
通するものがあるけど、それを表現する手段として絵の具を使い、
キャンバスを使い、ましてや絵画という形式を選び、ということか
ら派生してくるイメージ−これは効果や構造も含んでいるが−があ
る。それは描いている時に、制作のプロセス内での時間の集積の中
で生成してくるものなんです。
 頭の中で考えたものと、実際に絵の具をおいて描いたものの間に
はずれがあるんです、絶対。頭で考えたものに近づけようとして、
描いたり、やり直したりするんだけれど、その壁は絶対越えられな
い。限りなく近づいても、ぴったり同じにはならない。絵の具やキ
ャンバスという物質に依存しているからね。でも、逆にものから触
発されるイメージもあるんです。もとにある透明なイメージじゃな
くて、絵の具に依存し、絵の具の姿を借りて表れたものから、また
効果として違うイメージが出てくる。
 核になるイメージと前の作品の制作の中から出てきたイメージを
相乗したもの、それが僕が新しく作品を描く時にはじめにあるわけ
です。で、そうやって新しい作品を描いていくうちに生まれてくる
くるイメージに核になるイメージを相乗したものが、そのまた次の
作品に表れるんです。
 核になるイメージは、すごく個人的なものです。何色が好きかと
いう次元とたいして変わらない。でも、それだけでは作品として成
立しない。作品としての強さが全然ないからね。個人的な価値観だ
けをそのまま出して、「どうですか」ではお互い共通感覚がないで
しょ。それに普遍的な共通感覚の要素を入れて作品とするわけだか
ら。それが、かたちであり、色であり、ストロークであり、その組
み合わせの中で出てくるイメージなわけです。

<個人的な>

 タイトルは、英訳の聖書からとったり、あとドイツ語やフランス
語の本とか、「薔薇の名前」からとったラテン語のもあります。
 タイトルもイメージを形容する一つの要素なんです。文才がない
から自分で言葉を作れない。だから本を読んでいたり、色々なもの
を見ていて、ひっかかる言葉をとってくるんです。
 聖書はよく読んでいるということはないです。宗教は僕は全然知
らないけれど、僕のイメージがキリスト教の宗教的な世界に近い面
があるんですよ。これも核になるイメージを形容する言葉なんです
が、「尊厳」というか…。変なたとえかも知れないけど「ハハー」
ひれ伏す感じ。綺麗な刀を抜いた時に、ぐっとくるものがあるでし
ょ。雲のはざまから光がすっと射してくる時とかね。そういう神秘
的な静寂としたニュアンスがあるんですよ、キリスト教の世界の中
に。僕が勝手にそう思っているだけだけれど。そういうものが核に
なるイメージに近いから、それで聖書から引いてタイトルにつけて
みようかな、と。言葉の意味自体には何も意味はないんです。
 聖書の言葉であるということは説明しないと人にはわからないか
も知れないけど、日本語に訳すのは恐いんです。また違う意味にな
ってしまいそうな気がして。それなら原典のままおいておく方がい
い。もっとも僕が使っている聖書も、原典から英訳されたものだけ
ど。
 ヨーロッパの中世にひっかかりがあるんです。ただ単なる憧れで
すけど。ドイツの方の森とか。行ったことないから知らないんです
が、情報として流れて来るものを見ているとひっかかりがあるんで
す。メルヘンティックな話ですが、妖精がいそうな、神秘的なもの
を感じる。自分のもっているイメージの原風景なんですよ。これは
もう個人的な趣味なんでしょうね。だから説得力も何もないけれど
何が蠢いているかわからない感じね。結局、闇なんです。その闇の
中に浮き上がってくる、あるいは逆に溶けてなくなっていく何か、
というニュアンスが僕のイメージにあるからそれが西洋の森の中に
通じるんです。
 こういう個人的なことは制作の過程で、アトリエの中で考えるこ
とであって、何も他人と共通項がない、独り言みたいなものです。
どうしても、というなら言うけれど、でも、人にはよくわからない
でしょ。かと言って、これから共通項を見いだして「荘厳」と言っ
てみても仕方ない。解釈される幅が広ければ広いほど、その作品は
強いはずだから。

<描くこと>

 どうして絵画を描いているかですか。文章書けないでしょ。人前
に出ることは恥ずかしいし、体が弱いからパフォーマンスなんかで
きないでしょ。ピアノ弾けないでしょ。重い物持てないから石彫も
できないし、不器用だから立体が作れない、版画が刷れない。ただ
それだけの事です。絵画をやるのは美術にかかわる第一歩だしね。
絵があっていたんでしょうね。油絵の具が好きなんだろうと思う。
昔はアクリルを使っていたんです。乾くのが速いから。イメージを
できるだけ速く定着させなければならないから、速く乾いた方がい
いかなと思っていたんです。でも、物質的な、質感の面から考える
と、あまりイメージに近いものがないんですよね。僕が描いている
ものはねちこいのに、アクリルは淡泊だから。で、試しに油絵の具
で描いてみたら画肌が非常にイメージに近かったから、それから油
にしたんです。
 今回の個展の作品は3点並行して描いたんです。こういうのは初
めてですね。はじめ、1点に集中してやっていたら、ぐちゃぐちゃ
になってしまって何度もやり直していたんです。
 ある作品を描いている過程で現れたイメージを次の作品を描く、
と言ったけれど、実際のところはそれほど整然とはしていないんで
すよ。言葉で言うほどね。ただ意識してそういうふうにやらないと
駄目なんですよ。一つの作品の中であれもやり、これもやり、いら
ないことまでやってしまう。普通の絵になってしまう。
 3点を一緒に描くより時間がかかって夜が明けてしまいそうだっ
たから、帰って寝たんです。で、またアトリエに行って描いた。一
晩おいた事で迷いが出てしまった。まだ終わっていないのに時間を
おくと、また違うふうに見えてしまうんですよ。やはり、はじめか
ら終わるまでやらないと。間をおいた事はプラスには働いていない
と思う。イメージ自体が変質してしまうし、さめてしまう。そこで
さらに広がりがでる、という事はないですね、不器用だから。迷い
がでているから、1点1点の作品が強くないんだと思う。
 絵を描く時のエネルギーとは別に絵を描く態度に自分を持ち上げ
るエネルギーが必要なんです。間をおくと、絵を描くところまで、
また持ち上げなくてはいけないでしょ。それはすごくしんどい。無
駄なストロークを一つやっただけで、すべてが駄目になってしまう
ような気がするから、描く態勢にボルテージをあげるまでで、エネ
ルギーをたくさん使うんです。気も使うし、体力も使う。でも自分
をそういう状態にもっていかないで、そのまま描き始めてしまうと
必ず作品は駄目になってしまうんです。
 今の作品が最上であるということは有り得ないから、核になるイ
メージにより近いものを目指して描き続けることになるんでしょう
ね。今のテーマが変わらないとすればね。より近いものに実際に今
はなっていっていると思う。無駄なものがなくなってきているし、
ストレートにイメージが出かかっている。
 でも、核になるイメージもだんだん成長していく。だから「これ
で終わり」という事は多聞ないですね。問題意識が、がらっと変わ
ってしまわない限りはね。あと、精神的に破綻してしまったら、も
う駄目だから。それでは作品にならないから。
 やっぱり言葉では難しいという意識がどこかにあるのかな。形容
する言葉ばかり羅列するだけ、表面だけだから。結局、核の部分は
言い表せないから絵を描いている、と言うと少し極端かも知れない
けれど。言葉で解釈しようと思うからややこしくなる。感じ方の問
題やのにね。
 半分は自分の勉強不足かな。言葉をあまり知らないんです。それ
に仲間内では通じる話が、もっと距離をおいた関係の人と話してい
ると通じないでしょ。
 とは言っても、言葉自体は信用しています。例えば誰かが僕の作
品について書いた文章があるとして、その人はこういうふうに感じ
て、こういうふうに書いてくれた、そういう解釈の仕方がある、と
いう事に対して謙虚でありたいと思うし、信頼しています。それに
言葉を全く信用できないというのは悲しいでしょ。コミュニケーシ
ョンをとる手段として、一番ウエートが大きいのは言葉だしね。
 核になるイメージの事も、人に説明したい気持ちはあるんです。
でも、言葉がない。その代わりと言っては何だけれど、自分の作品
を信用していますから。信用できない作品は人には見せれない。た
だ、その信用が横柄さにすり替わったりするけど。だからそれはセ
ーブしなければ、と客観的に自分の作品をみるように努力するんで
す。