ART&CRITIQUE No11 TALK
「絵画への期待−回顧と展望」 1990.3

河崎ひろみ,館勝生,山部泰司
コーディネーター:仲間裕子

仲間
1980年代を振り返ってみて、この10年間の美術の流れを特徴
付けますと、フィギャラティブな絵画の復権にあると私は思ってい
ます。フィギャラティブな絵画の復権というのは単に絵画表面の問
題にとどまらくて、具体的なイメージや意味や内容を持つ形象の復
活をも意味するわけです。このようなフィギャラティブな絵画の復
権にとどまらず、折衷主義と批判されているポスト・モダニズムの
時代においては、しかしながら、様々な芸術様式やテクニックが可
能になっているわけです。モダニズムの理性の偏重や厳格主義を乗
り越えようとする解放的な動きも80年代の特色であったと思われ
るのですが、このようないろいろな可能性を秘めた時代において、
特に絵画らしい絵画にこだわっている三人の画家の方たちに、まず
平面としての絵画の魅力からお聞かせいただければと思います。

河崎
そのまま描くだけであれだけのものが表現できるっていうのは、か
なり大きい魅力だと思うんです。形、というか三次元のものをつく
るのにも憧れますが。(絵画は)自由なようでいて、かなりそこに
制約があるんですよね。版画科を卒業したんですが、版画をやって
いて自由に絵をかきたいと思って絵を描いたんです。でも、それは
それで制約もあるし、その制約もまた心地よい感じがしています。

山部
まず、絵画はメディアが素朴ですね。非常に直接的な手段で。学生
時代はそういう芸術にかかわる手段として直接的なものを選ぶのは
非常に恥ずかしいというか、そういう感情がありまして、いろいろ
やりましたけれど、そのメディアを選ぶと必然的にオリンピックに
参加してしまうというか、一つのフィールドにのらなければならな
い制約が逆に絵画の面白さにつながります。インスタレーションを
したり版画をしたりというと、それなりの選手権みたいなものがあ
ったとしても、一つの制度として絵画と比べてみると弱いですから
ね。

仲間
弱い、というと具体的には?

山部
歴史的にとか。絵画をかいてしまうと、否応なく考えなくてはいけ
ない部分ってあるでしょ。いい加減にできない部分もたくさんある
し。素朴であって素朴にかかわると全く意味をなさないジャンルで
あるというところが、あえて絵画をかいている理由だと思います。


さきほど「80年代の…」というのを今のこの話の前提に出されま
したが、世代的に言うとこの三人の中で一番若いわけですよね。山
部さんみたいに直接表現にかかわる部分で恥ずかしいと思った後、
より後から制作を始めていますので、別に恥ずかしいと思わなくて
もストレートにそのまま出来たという世代です。「反動として」と
かいうように否定すべき対象が明らかになったわけですよね、山部
さんや河崎さんの世代というのは。河崎さんは版画をやっておられ
たからちょっと違うかな。

山部
トランスアートシーンやな(笑)

河崎
個人的ですから。


僕らの場合は、否定すべき対象が初めからなかったんですよね。ミ
ニマルがいやだから表現的な絵をかくんだとか。もちろん頭の中で
は、今の美術の流れとかは勉強として捉えていたけれど、体験とし
ては全然ないんですよね。

仲間
全然影響を受けてない。


いや影響はもちろん受けますけど、実際に体験しているのと体験し
ていないのでは違いますでしょ。明らかに作品の流れからコンセプ
チュアルアート、ミニマルアートで自己の作家としての必然性とし
て絵画をやった作家もいらしゃるでしょ。黒瀬剋さんにしてもそう
やし。僕らはそういうことはあくまでも机の上で勉強したことで、
現代美術を意識し始めたのが80年代の中盤やから。そこで、なぜ
絵画にこだわるかということは、さっき山部さんが言われたみたい
に体験的なものがないんですよね。すべてが許されていたという。
なにをやってもかまへん。外国だったらニューペインティング、日
本に入ってきた時にニューウェーブという言葉にすりかえられまし
たが、そのニューウェーブの時に、さっきの「フィギャラティブな
絵画の復権」が関西の中ではそれほど顕著にあらわれていたかどう
か。それよりももっとインスタレーションとか、巨大な作品、彫刻
作品とか、あくまでもそっちの方が主流でしたでしょ。僕らが学生
の間に動ける範囲というのはせいぜい関西のまわりやから、絵をや
っている作家は非常に少なかったんです。で、体験的なものではな
く、後づけ的になにをやってもかまへんのやったら、逆に、あえて
逆説的でいやな抽象的な言い方になるんですけど、それなら絵画で
考えてみようかというところが発端なんです。歴史を意識する意識
しないじゃなくて、状況があくまでも完全な無風状態で形式的な主
流がない、そういうところから絵にはいっていったんです。

山部
僕が学生時代、70年代終わりに画廊を周っている時にあった作品
というのはミニマルアートの亜流なんですよ。サイズは90×90
だったり、割と中途半端だった。木のとりやすい寸法だとか、キャ
ンバスのサイズそのままに使っているとかいうように素材に従って
いるんです。作品は作品で自立していると言えば自立しているんで
すよね、全くまわりの環境と関係なく存在していて。あまり勉強し
ていない学生が見に行ってもどう見ていいのかわからなくて作者に
これはどう見るんだと聞いては煙にまかれていた…。あるいは自分
のアトリエのスペースは非常に狭いんで、生活から自然に引き出さ
れるサイズがこのサイズだというので小さいサイズになって。どち
らも何となく不純な気がしていました。それで東京に行くと東京は
もの派の亜流ですよね。画廊の中の空間と物質が亜流は亜流なりに
こなされていて、身体スケールとか身体的な関わりが表現と非常に
結びついているなとか、素材が自立しているなとかいうのとは全く
異質なものだと感じた。その辺もぼくがインスタレーションをした
いなと思った理由でもあるんです。インスタレーションは今は絵画
あるいは彫刻の過渡期的な表現として無視されているというか、価
値付けの中のインスタレーション不況みたいなものがあって、80
年代の後半からずっとインスタレーションの作家に対する風当たり
が強いんだけどもう少し別の視点から捉え直してみると絵画の問題
意識と案外近いものもあるしね、自分としては。その時期、フィギ
ャラティブなペインティングは関西で本当に力を持つ形ではなかっ
たですよね。芸術というのはやはり力の表現であって、いろんな意
味で力というものが介在しないと芸術作品として成り立たないとい
う危機感みたいなものが、関西の若い作家の中にあったと思う。イ
ンスタレーションにしてもインスタレーションから彫刻に移行する
にしても、作品に内在する力を強化しようというのが80年代前半
から中盤にかけてのいろいろな試みがあったと思うんです。ヨーロ
ッパやアメリカなど西洋で芸術をやっているということは、力とと
からのぶつかり合いとか、歴史と歴史のぶつかり合いとか、様式と
様式のぶつかり合いであったり、ある種作品が自立するためには腕
力がないとだめっていう…。関西だけでみてみると、そういうのが
70年代、若い作家前の世代をみた時に一番欠落していて生活のま
まに流されながらつくっていけばいいような感じがする。


「具体」は腕力ありましたね。(笑)

山部
「具体」にはあった。具体は腕力だけは評価できるっていう感じか
な。

仲間
日本だけでなくヨーロッパの国々もそれぞれの葛藤があって、よう
やく自分らしさみたいなものを模索できる環境になりつつあったの
が80年代だったと思うんですよね。そういった意味では、これか
ら90年代に向かって非常におもしろいものが展開してくるのでは
ないかと思って期待しています。

山部
芸術戦争ということを考えると50年代から60年代にかけてアメ
リカは勝ったわけでしょ。それで何をやったかというとアートにま
つわる雑音みたいなものを一つ一つ切り落としていって、力だけを
増幅させていった。イメージを切り落として平面を強くするとか色
彩を強くするとか、スクェアをより強く押し出すとか。車がどんど
ん何千リッターというすごい車になっていくような感じで。で、フ
ォーマリズムがでてきた。1920年代のアーティストが持ってい
たいろんな雑音みたいなものをフォーマリズムの作家は全く持って
いなくて、作家として僕らが話にいっても非常に限定された話しか
できないんじゃないかというような人がいっぱい出てきて。


でも現場の作家は主題などを非常に意識していたでしょ。それを評
価する機能というか、評論家のその作品を評価する位置づけが、形
式的な面のみの評価になってしまっただけであって。作家自体はイ
メージのことなどももちろん考えていたと思う。抽象表現主義なん
か…。

山部
でも毒抜きされているんじゃない。抽象表現主義でもアーティスト
と作品という円環の中で語れるし、それ以後になったら作品の中だ
けで語れるという過程で、何か対外的に毒を持っていない。


毒が見えないんでしょう。持っていないんじゃなくて。フォーマリ
ズムというのは毒を隠蔽するぐらい強かったというだけであって。

山部
毒抜きでインターナショナルなスタイルにして、第三世界にも輸出
できたし日本でもフォーマリズムという受容のされ方をした。これ
はある種の芸術政略的な戦法でもあるから…。


共通言語になり得た。

山部
今のアーティストは政治的な話とか人間の話とか生き方の話とかを
するだけでも、あいつはバカだというぐらいに、僕らはもうそうい
う価値観を受け入れますよね。キーファーなんかがああいうのを扱
うと、すごく異端的に見えたわけでしょ。日本ではまだああいうこ
とはどの作家もできない。


できないと言うより…。

山部
したくないって言うのかな。


したくないと言うより、リアリティがないんですよね。政治的とか
社会的とか宗教的な背景がほとんどないから。

仲間
今は地球的な単位で語らなければならない問題が、たくさんあると
思うんです。その国だけじゃなくて、社会的なものを考える時代に
なってきているんじゃないんでしょか。


あえて出さなくても、作品は絶対に環境というものをはらんでくる
から。

山部
はらんでいればいいんだけれど、例えば1960年から70年代に
アメリカが経験したようなことを無意識に追体験しているだけみた
いな作品もないとは言えない。そういうフォーマリズムがあって、
一つの制度の中からものを考えれば絵画がかけるという幻想がある
ことによって絵画との関わり方を非常に安易に捉えてしまう、とい
うこともあると思うんです。


それだけの法則があったわけでしょ、要するに。こうしたら平面作
品としてちゃんと位置づけられるという。歴史的な流れかは知らな
いけど。日本の場合だと、それがさっき山部さんがおっしゃったよ
うに亜流に近い形でしかなかったんでしょ。

山部
日本の現代美術の絵画史って、まともに読んだことはないけれど、
日本の絵画史の中で独自の発言をした作品がどれほどあったかとい
う。作家としてみると非常に感銘を受ける絵画があったとしても、
一つ歴史をふまえて作品として描かれただけの重みをもった作品が
あったか。逆に言うと、80年代が非常にパーソナルであったり、
イメージであったり、子供っぽい作品であったり、ということの中
に80年代の関西の意味があるんじゃないか。80年代に出てきた
関西の作家というのは、発展途上作家というか…。70年代の作家
っていうのは、大義名分を最初にポンと打ち出してしまって、それ
をフォローしていくだけの作業だったけれど、ぼくらというのは世
界を計っていくというのか、いちから関わってきたわけですよね。
インスタレーションという行為も端的にその表れだし。館君とか、
80年代の半ばから絵画を始めた人たちの絵画っていうのもいちか
ら関わっている。


80年代は表現の一番根源的なところにやっと戻ってきたみたいな
ところがありますよね。おそらく山部さんはさっきそういう意味で
「発展途上」と言われたと思うんですけど。80年代が振り返るだ
けのものかどうかは別にして表現の根源的なところにやっと戻って
きたというだけあって、それから何が出てくるかは全く未知数で、
それを提示していってる作家はいないって言ったらあかんのかな?
少ないですよね。作品は何かの形で共通言語を持ち得なくてはだめ
だし、ただ流れとして根源的なところに立ち返った、「はい、それ
でよろしい」、だけの話になりませんでしょ。これからそういう共
通言語を探す、ではなく作るべきですよね。探してもいないんやか
ら。そこで個人的なイメージだけでなく、それを普遍化させるだけ
のイメージなり何かないと、さっきの山部さんの言葉で言うと作品
が腕力、力を持ち得ない。ただ単にひとこまひとこまの流行でこれ
は環境がこういう状態だったからこういう作品ができました、それ
で終わってしまう。

山部
でも今の義務教育ではノンポリに育つというのが一番優等生やと思
う。ノンポリに育ってしまったところから、僕は始まってしまった
なあ、と。


僕らは、そのノンポリ見ててあかんなあと思ってやってるわけやか
ら…。(笑)

山部
あー、なるほどねえ。(笑)


世代的なことはナンセンスかも知れないけれど、僕らはニューウェ
ーブの頃の、あれを傍から見てるわけですよね、学生の頃。すごい
な、大きい作品やな、すごい力があるなと。視覚的にやっぱり力あ
ったし、状況としてもすごい状況を作り出されたわけで。じっとそ
れを見てて、その頃の作家のその後の展開を見ていても、何も出て
こない。ただ単に、極端かも知れないけれど個人的な、自己満足的
な次元でしかとまっていない作家の方がほとんど。それはちょっと
まずいんやないかと。

山部
80年代前半にイエスアートとかいろんなグループ展をした時に、
とにかく大きい作品を出そうとか、自分の能力120パーセント出
そうとかいう言い方で、自分が表現できる可能性は切るんじゃなく
て喉から手が出るような感じでどんどんつかんでいって、とにかく
にぎやかで派手な展覧会をしたいという時期があった。それは今館
君が言ったように、ある種、戦略的なね。一時期関西にとってはこ
れは必要であるという戦略性もあると思うんですよ。僕らの美術が
自立するためのひとつの契機として。その時は外国の美術と対等に
見られるということも気になっていたと思うし。そこに注がれたエ
ネルギーの量は、例えば小さい作品を前にしたときの感動の量に、
わりと正比例している部分もあるんですよね。とにかく自分の持っ
ているエネルギーを全部そこに注ぎ込んで大作を作ろうという共通
意識があって、アートナウに巨大な作品が並ぶという事態にまでな
ってしまったんだけど、あれは単に意味もなく大きな作品を作って
いるとい言い方をされていた時期もありましたけど…。


でもそれはそれで、すごい必然性があったわけですよね。

山部
何か質を獲得するために一度恐竜みたいに大きくならないと駄目っ
ていうやむにやまれぬものがあったんだけれど、それは単にアメリ
カ的なやり方を繰り返しているのか…。ただ大きい作品の場合、大
きい作品であることの責任みたいなものがあって、別の回答をこれ
からあたえていかないと。

仲間
一般に日本の作家の作品が批判されるとすれば、日本人の作家は非
常に器用だ、表面もすごくきれいに仕上げる、ただ生活感がないと
いうか、そうした批判をよく聞きますよね。


確かに、工芸的なり、非常に恐ろしいほど完成度が高い、そういう
見られ方でしか見られないということは、表層しかよく見ないとい
うことでしょ。逆に言えば、そこしか提示できない日本の展覧会の
コッミショナーや評論家の力のなさもあるし、作家の力のなさもあ
るし。そこで十把一からげにきれいやな、だけで終わってしまうと
いうことは、ちょっと問題だと思う。

仲間
そろそろ具体的に作品の話に入りたいのですが。ステラの「ワーキ
ング・スペース」は、今までの疲弊された絵画空間に活力を与える
ために必要で、そのワーキング・スペースはいわゆるイリュージョ
ン、力を必要としているんだというふうに言っていますよね。同様
に山部さんの花というのは、画面に活力を与えるイリュージョンだ
ととらええられることが多いと思うんです。私はポロックの作品で
もイメージや生命的主題を見てきたので、絵画というと、まあ造形
性ももちろん大事ですけれども、イメージも忘れることのできない
人間なので…。活力を与える造形要素というのみでなくて、シンボ
リックな、象徴的な意味合いがないと面白くないと思うんです。例
えば「Grave86−4(red)」という作品ですが、これを
見て私はまずゴッホの「糸杉」を思い出したんです。ゴッホの糸杉
というのは、エネルギーが上へ上へと昇華するような形で描かれて
ますよね。山部さんの花も同じように流動的な力が上へ上へと昇っ
ている気がするんです。ゴッホの糸杉は死の象徴であると思われま
すが、山部さんのこの作品の花を見ても、生命力が盛んなようであ
りながら回避できない死も裏にあるような…。そうそう、もちろん
タイトルから来ているのかも知れませんが「Grave」は「墓」
でいいですか。

山部
「重厚さ」ぐらいの意味でその時は使ったんですが。

仲間
そういう意味もありますね。

山部
でも両方の意味ですね。

仲間
タイトルをこういうふうにされたのは、山部さんもそういった象徴
性に関わるイメージや意味を重視されているのですか。

山部
でも、「墓」と訳してしまうとあまりにも直截的なので、「重厚な
もの」という感じで。イメージをはかっていく時に、「墓」という
ことも考えましたけど。両義性を持っていないものもあるけれど、
後の「咲く力」にしてもプラスマイナス持っているものとして扱っ
ているんですが。他の人はあまりそういうことを言ってくれない。
イメージは確かに絵画の中に活力を与えるものではあるけれど、逆
に絵画を殺してしまうものでもあるんですよね。

仲間
殺さなくても、うまく両立させることも可能ではないのですか。

山部
可能だと思っていますよ。でも、安易に両立できるやり口というの
もあるかも知れないけど、イメージを描くというのは自分の中では
単に楽天的になれないやり方ではあります。シンボルと関わるとい
うこともあるし。

仲間
どちらが主とか従とかないですけど、絵を制作される時にまず絵画
構成を考えられるのですか、それともこういうイメージを出してい
きたいというふうに…。

山部
絵を描くプロセスの中にイメージとかシンボルとか、イメージはも
ちろん象徴的なイメージですけど、それを関わらせながら、何とか
ふっきりたい。当然花を描いてそれが単に見た目みたいになるのは
面白くないけれど、逆に花を描いてそれが愛を表現するとかってこ
とになっても面白くないでしょ。もう少しその二つの両極の間のプ
ロセスみたいなところで、絵画でない絵画を作りたい。すごく抽象
的なんだけど、自分がかいているのは絵画ではないっていう。絵画
に見えるけれども絵画ではないようなものを絵画の形式をとって描
ければいいな、と。インスタレーションをやってる時に、部屋の中
にいろんな要素を配置していくっていうのは、意識として絶対中心
を持たないでしょ。まあ、持つ場合もあるかも知れないけど、かな
り持たない。ぼくは絵画の最初の頃、絵画の横にオブジェを付けた
りしてたでしょ。それは絶対中心をはずしたいというか、うまくご
まかしたいというか。絵画の中にだけかく時も本当に悩んだね。絵
の中だけでイメージをかいてしまうと、もう僕の作品じゃなくて、
取り込まれてしまう。その恐怖感というのがかなりあって、決断す
るまでに…。もう一度、自分の側に取り返したい、と。まだ試みの
途中ですけどね。

仲間
花というのはモティーフから考えると一番装飾性に陥りやすいモテ
ィーフだと思います。それを装飾性に陥らないで描くというのは、
非常に難しいことだと思うんですが。日本人と花というと、花鳥風
月ですか、そういう形で距離をおいた淡泊な接し方だったと思いま
す。ところが山部さんの花の使い方はそういった日本的な伝統を破
る破壊力があると思うし、またそういうところを目指しているので
はないかと私は思っているんです。だから私にとって意味が重要に
なってくるわけです。いろんな花の顔を持っていらっしゃると思う
んだけれども、例えばこの「咲く力U」は満開の一番あでやかな姿
をしている花ですよね。それも非常に大きいから、生命力を象徴す
るような。ところが花の周りの抽象的な世界をみると、それとはす
ごく対照的で、抽象的な背景をみると、この花は咲き誇っているけ
れども短命であって、この一瞬先は枯れしぼんでしまって、この抽
象的な、暗闇に散ってしまう…。この花は装飾性に陥って欲しくな
いし、見ていてこれはどういう絵なんだろうと問い直すことができ
るっていうのが一番のインパクトであると思うんです。山部さんの
花って非常に官能的な感じもしますよね。生の根源にこだわってい
るっていうか…。私は特にベルリンにいたので、ベルリンの作家た
ちの作品をよく見ているんですが、彼らは肉体でもって生を直視し
ようとしているわけなんですね。もちろん、むこうは政治的な側面
もあるし、いろんな要素も他にありますけども、根本で共通してい
るところがあるのではないでしょうか。花の扱い方がこれまでにな
い扱い方じゃないんですか。

山部
けっこうパーマネントに扱ってますね。その瞬間というものは両義
性を持っているけれど、永続化させているというかね、作品に対す
る時は。イメージの在り方もすごく気にかかるし。力が発生するプ
ロセスみたいなこともそこには関係してくるし。ここに人が五人い
て、ここに花が発生するプロセスみたいなものがあるでしょ。踏み
とどまってますよ作る時は。作者はある程度踏みとどまりながら、
ふんばりながら描いている。対象化しようと。

仲間
一体化しないで対象化しようという…。花へのこだわり方を聞きた
いんですけれども、インスタレーションの時も、花が大きなテーマ
だったんですか、それとも絵画のなってから花にこだわり始めたん
ですか。

山部
花をかいたのは絵画になってからですけど、リアクションの仕方み
たいなところでは、インスタレーションの時もです。その時は、も
っと一体化してたかな。


昔「3000のマット」でしたっけ、そういうキーワードをよく使
っておられたでしょ。

山部
ノイズみたいなものを大事にしていこうという、一元化しないとい
う意志もあるし。作品化されているかどうかわからないけれど、も
う少しまじめに自分の様式みたいなものを決めて作品を作れば、色
調ににしろストロークにしろ毎回自分の感覚を活性化させる装置に
なる。自分の中にあるもやもやしたもの、いろいろありますよね、
二重人格的な部分とか、そういった部分をエンジンにして作品と関
わっていこう、ということはずっと考えていましたね。インスタレ
ーションの時も、絵画に移行する時も。教条主義的といいうんです
か、自分の中でもそういうものをつくらないで、停止原器みたいに
スケールをつくるんじゃなくて、尺度が動くようにね。ノイズって
あるでしょ。それをうまく絵を描く時の尺度に利用しながら作品を
つくっていきたいなと折に触れて自分に言い聞かせているんです。
盛り沢山な絵画というものをつくろうとしてるんじゃないかな。さ
っき、「Grave」というタイトルをつけた作品を評価していた
だきましたが、もう少しそっちの方向で加速していくんじゃないか
な。


もちろん雑音の対照となるべき主調音があるわけでしょ。

山部
そういうものをより出していきたいな、という気はしてるね。主調
音をどこかに選ぶかというのは僕の自由としてもっていたい。それ
は僕に言わせて欲しいなっていうか。主調音はこれですって言うの
は恐いけれど、あえて言いたいなっていう。それをあえて言いたい
なっていうのはここ一年づらいで出てきたことなんです。主調音み
たいなものを言わせないっていうのも解釈の自由を許すことであっ
て、アーティストと解釈者の間の健全な関係では、という面もあっ
てね。僕の作品を見てくれていろいろ言ってくれたら「うん、その
解釈も正しい、ああそういう見方もいいですね」と。どういう意味
があるんですか?と訊ねられたら、自由に見取ってください、と。
逆に僕が自分の作品を見る立場とか人の作品を見る時に、そう言わ
れるとね、がっかりするんですよね。(笑)主調音みたいなものを
ある程度出さないで、実は最終的に煙にまいてしまったり、相対化
してしまうようなことを作家が言うのは…うーん、今はあんまり言
いたくないな。これはセクシーだって読まれてしまって、それが主
調音でしょって言われて、違いますよって言うけど、別な意味で、
自分が言い切れるところは言い切るかたいの作品をつくりながら、
さっき言った不特定多数の動機みたいなものも、その中に織り込ん
でいきたい。どこまで言えるかは、僕の才能がどこまであるかって
いう自分自身に対する問いかけであって、自分自身をどこまで厳し
く見つめるかに関わってくるし。

仲間
山部さんのイメージは、直截的で刺激的な感じがするんですけど、
河崎さんのイメージはオブラートに包んだようなかたちで感じが伝
わります。特に最近の作品、「みつめるもの」もそうですね。この
作品は河崎さんが自分の中の心を見ようとしている、自分の中の心
象風景ではないかと思うのですが。河崎さんの心象風景は、例えば
シャガールのように民族性と結びついた普遍的なものでもない。そ
してシュールの作家たちの心象風景のように後で精神分析の対象に
なるような心象風景でもなくって非常に個人的でナイーブな感じが
してくる、そういうものが伝わってくるわけですね。そして例えば
木立の中から浮かび上がってくるような形象があって、それは何か
に例えて言うなら心の精みたいで、非常に瞬間的なイメージのよう
に思われて、近づいていったら消えてしまうような感じですよね。
だからこの作品を見せてもらって、またシリーズで見せてもらうと
河崎さんが自分の心の中を見てその心象風景を絵にしていらして、
ところがそのイメージというのはいつも変わっていくような。一定
したものじゃなくてどんどん変わっていく。それを絵をかき続ける
ことによって追い求めるというか。他の言葉で言うなら、私小説み
たいなね。自分の個人的な考え方とかイメージとか、いろいろあり
ますけど、そんなものを心の底まで見つめていきたい、というよう
な感じなんですね。例えばこの「黄色な時間だけの仮死」という作
品では、この木は葉がない、落ちてしまった木であって、枯れ木と
いうか、タイトルにもありますけど死のイメージがするんだけど、
しかしその死というのは、それが生きていて死んだ、生があって死
があって、という感じではなくて、象徴的にこれは死であるんだ、
というような。

河崎
個人的というのはそうですね。

仲間
非常に包み込んで大事にしている自分の心の中の底のイメージを絵
にかく。他のメディアで考えると例えば詩のような、言語を絵画に
見つけ出していくというような印象を受けるんです。

河崎
わりとずっとそうやって個人的にかいてきたんですけども最近徐々
に心の中から出るイメージというのは信用できないという感じがあ
って、だんだんそういう思い入れというのは減ってきているんです
ね。一つのかたちに対する思い入れが…。


色に対してはどうですか。

河崎
色に対してはね黄色を使い始めたのはその前に白い作品があって、
白に対する不満ていうか、かなり窮屈だったので、そこでまあ、赤
や青というのはかなり主張がありますよね。黄色は私のイメージで
言えば、感情のない色というか、そういうイメージだったんですけ
どもね。だから白から変わるにはそんなに抵抗のない色でもあった
し。まあ使ってみたかったんですけども。で、いまだに黄色である
というのは、次のステップがないとも言えますけどまだその中でや
りたいこともあるっていう感じで…。

仲間
制作される時点で、サイズの効果というのはかなり重要になってい
ますか。

河崎
そうですね。小さいと一目で見られますし、この(「あらゆるもの
と小さなひとつのために」)なんかは、全体をまとめようとはして
ないんですね。だから、これぐらいのサイズも必要だと思うんです
けど。一目で見られなくて、ずーっと体を動かしてかいていくみた
いな感じの方が合うと思うんですね。かく時もその方がいろんな所
にいろんなものをかいていけて、ここでもちょっと完結させて、こ
こでも、ここも、という感じにして、なおかつ全体にも関係がある
みたいな感じで。まあ、前の作品というのはそうでもないんですけ
ど、この作品は特にかたく決めないでおこうという前提があって。
描いて出てくるものを受け入れやすくするためにこっちからこう命
令的に描いていくんじゃなくて、描かれたものを取り込んでいくみ
たいな描き方、そういうのをしていきたいなと。

仲間
人物像を中に入れるねらいはどういうところに?

河崎
ああ「黄色の時間だけの仮死」ですか。それは黒い丸でもあったわ
けですね。山部君の話とは逆になるけど、主調音を出さないという
のか、今はね。私にとって、ちょっと顔が描きたかったけれども、
黄色の中の黒い固まりとして見てもらってもいいし、そういうつも
りで描いているから。葉っぱをかいたり、顔を描いたりとか、そう
いうイメージっていうのは、やっぱり非常に個人的なものなんです
ね。

山部
たまたま、丸い形に顔をあてた、という感じ?

河崎
最初はここに黒が欲しいという感じでかき出したから。それがまあ
顔になった、みたいな。


パノラマというんですか、心象風景をこないだの個展の作品「あら
ゆるものと小さなひとつのために」は環境化してはるでしょ。絵画
っていう一つの枠じゃなくて、こう(L字形にして)視覚を拡げて
取り込むかたちで作品を出されたでしょ。前からそういうニュアン
スがあったと思うんですね。その中の観者がさっきの黒い顔じゃな
いんですか。そういう読み方も…。

山部
部分から順番に見せていきたいというのは、僕なんかでも考えたこ
とあるけど。そういう動機をよりいい方法で、と考えた時、うまい
よね。絵巻物でも博物館でガラスのケースに入ってて、端から歩き
ながら見ていくような見方をさせてるね。

河崎
わりと表面にしかこだわっていないと言いながら、個展の時は部屋
全体の作品のサイズはかなり悩んでしまう。

仲間
この前の個展の作品を見ても、色は変わっても根本的なところは形
態もそんなに変わってないですよね。何か不思議な幻想的な空間か
ら人のようなかたちが生成してくる、というような。

河崎
そうですね。だから非常に個人的だと思うんですが、でもやっぱり
今までにみたことのない絵画空間をつくりたいって思えば、やっぱ
り昔のものも知っていなければいけないし、いろいろ考えなければ
いけないから。見たことがあるものを出してきても、新鮮とは言え
ないですからね。歴史的なこととの関わり方も、そういう意味で言
えば個人的になると思いますけど。

山部
さっき「こわれやすいイメージ」っておっしゃった。ふとそれを聞
いて思ったんだけど、初期はわりと薄い塗りでさらっとかいていた
から、よりそういうフラジリティ(もろさ)みたいなものが際立っ
てたけれど、この前の個展あたりから少し色に厚みが出てきて、ち
ょっと刻印された、彫り込まれたみたいな、かなり強い線や形に変
わってきたっていう感じはないですか。まだ見方によっては十分そ
ういうイメージのき弱さとか、うつろいやすさ、という部分を受け
入れながらつくっているなというところもあるけど。明らかに黄色
の絵具が厚くなって、良くなったと思うもんね。いいなーと思った
んですけど。

河崎
そうですね、ずっと絵画を続けているというのは、一つつくると、
ああ、こんなことも知らなかったんだ、というのがわかって、一つ
ずつ変わっていくみたいなつくっていき方だし、だからまだまだ絵
をかくってことはおもしろいですね。

仲間
山部さんは、私がみると官能的な感じがあったんですけれども、館
さんのはストイックですね。表現主義的な荒々しいタッチなんです
けれども、表現主義の枠では語り得ないところがありますね。奈落
の底って言ったら極端かも知れないけれども、宗教的な、聖書から
の言葉や宗教的なものに由来するようなタイトルを与えていらっし
ゃることもあるんだけれど、宗教までのぼりつめるような崇高な精
神性を求めているのですか。


一つにその「表現主義的な表現方法を使う」というところですが、
表現主義にしても、マチュウとかアンフォルメルのああゆうのって
いうのは、もっと物質的なところでつかってたでしょ。私の場合は
イメージをどれだけストレートに画面に定着させるか、そのために
は、イメージっていうのはだんだん朽ち果てていってしまうから、
より短時間に制作しなければ、イメージが出ないようなんですよ、
私の場合。まあイメージの捉え方っていうのは全然、作家の方によ
って違いますけど。それで必然的にストロークが速くなるし、制作
時間も短くなる。こういう点で後付けでそういう「表現主義的な」
っていう言い方になりますけど、意味合いは全然違います。

山部
個人的衝動とか、情動みたいなものをすばやく定着させたいわけで
すか。


まあ、情動というか、あくまでもイメージっていう言葉。

山部
イメージっていうのは何ですか。


イメージっていうのは言葉で言う場合、形容する言葉の一つとして
イメージっていう言葉を使うでしょ。「何とかのイメージ」、「花
のイメージ」とか言うし。そのイメージっていうのは、あくまでも
非常に限定化されたものにしかならないでしょ。形容するってこと
は、その形容される言葉を限定するということだから。それは全然
普遍的にはなり得ない要素になってしまうでしょ。あくまでも個人
的なレベルを絶対に越えないですよね。僕が思っているイメージは
そういうことやなくて、各々の人間が、もちろん見え方は全然違い
ますけど、各々持っているところに語りかけていく普遍化され得る
イメージのことを考えているんですけどもね。絶対的なイメージっ
て言うか、原イメージという意味でのイメージ。

山部
それは聖書の言葉なんですかタイトルは。僕、いつもわからないん
ですけど。そのラテン語みたいなのは何ですか。


ラテン語のあれは「薔薇の名前」の最後に出てくるラテン語なんで
すよ。最後にエンディングに出てきますでしょ。そのイメージが非
常に、ただ単に似通っていただけのことなんですけども。その言葉
が全てイメージを形容するということで、あくまで中心はイメージ
で、そのイメージを説明するのに…二年も三年も同じことを言って
ますが、形にしても油絵具とか、マティエールもそうやし、色もそ
うやし、全てそのイメージを形容する要素なんです。そやからイメ
ージを形容するんじゃなくて、イメージを形容する全て。もちろん
作品のサイズもそうやし。

仲間
館さんの作品は色彩の力も大きいですね。


色彩より闇ですね。影なんですよね、それは。色っていうのは、何
かと何かを対応させた時に初めて色が出るわけでしょ。まあこれ色
や、って言ってしまったら終わりなんですけどもね。これは全て均
一の色調、モノトーンに近い、というかほとんどモノトーン。黒っ
ぽい、青っぽい、緑っぽい、茶っぽい…。

仲間
やはり一番の根本は精神性じゃないですか。

山部
明暗法っていうのは、わりと精神性に基づいているような気がする
からね。ヨーロッパの絵画をみると、ほとんど館君の絵にライトレ
ットの赤とペールベルトのグリーンがのったぐらいの絵が多いでし
ょ、中世の絵ではね。いやほんとに。(笑)僕はそれは絵画のオー
ソドックスなものと思っているし、そんな恐いところに近づけない
なと…。


絵画のオーソドキシーというより、例えば、中世の絵画にしてもそ
れをぼくらが何百年か経って見た時に、妙なイメージってあるでし
ょ。僕の持ってるイメージとは違うんやけど、それが非常に近似値
である場合に、そういう匂いってどうしてもしますでしょ。匂いっ
て言うと、ちょっと抽象的な言い方になりますけど。

山部
逆に言うと、シュナーベルなんかでも、その色にコバルトブルーと
カドミュウムレッドがのっている、という。


ちょっと安易な…。(笑)

山部
安易だけれども作家として絵を見ると、精神性みたいなところ、伝
統と作家の独自性みたいなものは、意外に西洋っていうのは一つだ
なと思ってしまう。中世の絵を見ても、ニュー・ペインティングを
見ても、同じに見えるでしょ、絵って。


似通っている部分もあるという、それを歴史的な面から言うと、さ
っきもちょっと言ったんですけど、いわゆる絵画の歴史、まあ近代
以降でもかまいませんけど、絶対ふまえているなと自分でつくづく
思うんですよね。ちょっと重なりますけど、それを抜きにしたら語
れないし、それが絵画の一つの方向性であり得るというような確信
があるんですよ。フォーマリズムはだめ、個人的なものはだめ、そ
れである意味、それの間をいくというかそういうことじゃなくて。
これを言っているのは完全に形式的な面からで、内容のこととかは
直接関係ないですけど。方向性として明らかに必然的に出てきてる
ものやと思うんですよね…。例えばフォーマリズムの尺度でしか見
てない人が見た場合に、いくらでもつっこむところはあるけれど、
ぼくは尺度がまた違うでしょ。もちろんフォーマリズムの尺度から
も受け入れて見ているですけども、さっき山部さんが言われたみた
いにそれだけやない、また違う物差しで対応しているから。その批
判というのは、作品自体を見た時にあんまりリアリティーがない、
非常に偏ったところでしか見ていない批判になる要素がありますよ
ね…。先ほどの「表現主義的な」っていう話じゃないんですけど、
そういう面でしかみられない。で、それはイメージを制約させてし
まう要素になってきたんですよ。河崎さんの場合やったらイメージ
が減らずに、そのまま、また同じイメージで、同じレベルでやって
いけてたと思うんですよ。私の場合はそれが減退していったと思う
んです、自分の中で。要するに物質ばっかり見えて、イメージがみ
えてこない。それで今度の個展では絵具の、まあ物質的な面を抑え
て制作したんです。

仲間
皆さんは亜流の作品ではなく、自分の言語を持ち出そうとされてい
るわけですが、90年代に向けてはいかかでしょうか。これからの
抱負を、ありきたりなんですけれど聞かせていただけませんか。も
ちろん他のことでも結構です。

山部
最初から、日本のこういう状況に生きてて、僕はこういう作品をつ
くっている。80年代、学生で結構楽しくやっていて、物質文明が
どんどんあって、資本主義の中で。その楽しさから逃げてしもたら
あかん、みたいなところでものをつくっている。だから自分の言葉
を最初にかき記すために、今ここにいてしまっていることというの
に目をつぶったらあかんなと思ってたけど、また今再び、そういう
気持ちですね。「日本にいる」ということですかね。関係ないと言
う人も多いけどね。インターナショナルやから関係ないって言われ
たらそれまでやけど、こういう状況の中で、絵をかくためにはあん
まりよくなし…。

河崎
政治的に、とか?

山部
政治的にも良くないと思うし、シンボルって言われた時のイメージ
の拡がりなんかも全然良くないしね、日本では。イメージって言わ
れたらすっと入っても、それがシンボルと置き換わると何か咀嚼し
切れなかったりするし。

仲間
どうしてでしょう。

山部
宗教をあんまり持ってないからな。

仲間
でも、シンボルは宗教的なものに限られると思いませんが。


またイコンとかインデックスとかあるでしょ。

山部
その中間項としてシンボルがある。まぁ、あんまりリアリティがな
いですか。


何十年も前から絵画は終わった、芸術は終わったって言われてます
でしょ。

仲間
私の感じでは、「今こそ絵画」っていうところあるんじゃないんで
すか。絵画が一番可能性を秘めている、だからステラなんかでも、
絵画でなければいけないという信念を持っていますし…。


そこで絵画礼讃になってしまうと、全然だめなんです。絵画を至上
のものとして捉えてしまうと。

山部
絵画をかくためにはどうすればいいか、絵画を前提にして絵画をか
いてしまうと…。


それになると貧困化してしまう。作品としてこれからも見ていかな
いと。もちろん歴史的な絵画の流れっていうのは何度も言うように
ふまえているんですけど、それでは非常に範疇が狭い、というか。
それだけの問題では説明し得ない問題意識を作家みんなが持ってつ
くってますでしょ。ただそれを位置付ける機能がないだけ。ないっ
て言うと非常に曖昧な言い方になってしまうけど。

仲間
私は、作品の現実感に惹かれるのですが。貧困化に対しては、今こ
の1980年代、1990年代、その現実を含むような絵画の可能
性もあるのではないでしょう。今日はどうもありがとうございまし
た。