2000.10 展評 005
ギャラリー白 個展

尾崎信一郎(京都国立近代美術館主任研究官)

館勝生の新作

 絵画は常に痕跡、事後生として現前する。キャンヴァスの上に絵
具を重ねる。厚紙の上に包装紙を貼る。あるいは画布の表面を一閃
に切り裂く。絵画とは常にこのような行為の痕跡であり、既に終え
られたなにものかである。しかし私たちはこれまでこのような前提
に目を閉ざしてきた。再現的な絵画を想起すれば容易に理解される
とおり、絵画とは自らが描かれているという痕跡を可能な限り抹消
することによって初めてなにものかを指し示す記号として成立する
のであるから。絵画とは過去に生成されながら、あたかもそれにま
なざしを向けた現在、瞬時に現前するかのような錯覚を与えるイメ
ージのシステムと呼べるかもしれない。
 かつて、私は館の作品を現在性という観点から記述したことがあ
る。暗い背景に浮かび上がる植物や昆虫を連想させる一連の絵画に
おいて、暗闇の中への出現と消失、相異なる二つの契機をともに宿
して浮かび上がる一連の有機的な形象は永遠の現在とも呼ぶべき特
異な瞬間を画すことによって、なにごとかが始まる、あるいはなに
ごとかが終えられたといったたぐいのありふれた物語へ回収される
ことを拒絶していた。このような姿勢をモダニズム美術における経
験の純粋性という主題へと結びつけることはたやすい。
 しかし、今回の個展に並べられた新作を一覧する時、画面から受
ける印象はさほど変わらないものの、絵画の構造は大きな変化を遂
げている。今回の新作においては、いずれも地塗りを施した白いカ
ンヴァスの中心に暗い色彩によってこれまでと類似した形態が描か
れている。従来の作品と比すならば画面がいわばネガからポジへと
反転したごとき印象を与えるとともに形態をかたちづくる絵具の物
質性はかつてなく強調され、その上に残された指の跡も生々しい。
生乾きの絵具が生々しく突出する表面からは例えば白髪一雄のフッ
ト・ペインティングなども連想されよう。しかし、むしろアクショ
ン・ペインティングとの差異に着目する時、館の新しい絵画の特性
は明らかとなる。最初に述べたとおり、絵画とは畢竟画家の行為の
痕跡である。そして画家はこのような痕跡を強度に満ちた一つのイ
メージへと昇華させなければならない。いかにして痕跡を絵画へと
転ずるか。白髪の場合、床に敷いたカンヴァスの上の絵具を足で広
げて描いた絵画はその生成のダイナミズムをみなぎらせ、このよう
な緊張が痕跡としての絵画をいわば励起する。この時、アクション
の激発をとどめた画面は行為の指標ではあっても、なにかの似姿、
類像ではありえない。最初にも述べたとおり、イメージをなにもの
かに見立てようとする時、画布に残された筆触は連想を阻害し、逆
にイメージがどのようにかたちづくられたかに関心を向ける時、イ
メージはその類像性を解消してしまう。これに対して地と図が画然
と分かたれた館の新作においてイメージはまとまりをもって白い背
景から浮かび上がる。このイメージは作家の指の跡を濃厚にとどめ
ながらも、これまで館が描いてきた発芽する植物や昆虫の羽根を連
想させるイメージと類比することができる。館の新作においてイメ
ージは顕在的には痕跡でありながら、これまでに制作された作品と
の潜在的な関係においては類像として認識される。イメージは痕跡
と類像という本来両立しえない二つの働きの境界できわどいバラン
スをとっている。アクション・ペインターたちは無数の痕跡を画面
に残し、痕跡の過剰さによって絵具や塗料といった物質をイメージ
へと立ち上げた。これに対して、館は新作においてイメージの物質
性をかつてなく強調しながらも、なおもその類像性を担保とするこ
とによって緊迫感のある画面をつくりあげている。抽象表現主義以
降、絵画の物質的基盤−画面の矩形の広がり、そしてカンヴァスと
いう素材−を強調する代償として類像性は抑圧されてきた。しかし
ミニマリズムの成果を批判的に継承する館は画家の行為の痕跡に類
像としての強度を与えようと試みる。この困難な挑戦の先例はウィ
リアム・デ・クーニングに求められよう。デ・クーニングが具象と
抽象の間を往還しながらかろうじて成し遂げたこの本来的に矛盾し
た試みに対し、館はほぼ一貫した手法で取り組み、表現を深めつつ
ある。それは絵画におけるイメージの臨界の探求と呼ぶこともでき
よう。