1994.2 視聴覚通信12 展評
ギャラリー白 個展

上念省三

「表面の平滑さとスピード感−赤塚祐二展、館勝生展」

 油彩でもアクリルでも、絵具の厚さを強く感じる作品とそうでな
い作品とがある。マーク・ロスコは厚さを全く感じさせない雲のよ
うな、つまり物質というものなどキャンバスさえ存在しない水蒸気
の集積のような作品だし、ルオーは絵具自体に意味があるような、
キャンバスさえ塗り込めてしまってどこにあるのかわからないよう
な作品だ。絵具が厚いということは、一般的に言って厚い部分と薄
い部分の高低の差が生じ、極端に言えば浮彫のような作品になって
いるということだ。理屈からいえばそんな作品の方が迫力があると
いうことになっても不思議はないのだが、そうはいかないのが難し
いところだ。
 赤塚も館も、絵具を薄く使うことによって平滑な表面を持ってい
る。薄ければ塗り重ねてもあまり厚みを持たず、平滑さと透明感を
保ちうるだろう。赤塚はキャンバスに綿布を使っているというから
いっそう絵具は奥へ染み込んでいくに違いない。
 二人とも、何か具象になりそうな抽象でもあることも共通してい
るといえる。赤塚の作品にはとにかく形がある。落書きのような音
譜のような形、四角、丸、タコかクラゲのような線…。館の作品は
蘭か蝶の、花びらか羽のような形を思わせる。しかしいずれも、そ
れがそうであるとは保証されないから、ぼくたちは一応抽象作品で
あると見ることになる。赤塚では「Canary29211」とい
う濁黄色をバックにした作品が最も印象的だった。赤塚は油彩とワ
ックス(密蝋)を使っていることもあり、色の層を封じ込め固着さ
せてしまったような凍結感がある。その静謐さと作品の大きさから
くるボリューム感が彼の作品の魅力だといえよう。
 さて、同じような薄さを持っていながら館の作品について特記し
ておきたいのは、その持っているスピード感のことだ。おそらくは
絵具の薄さによってドローイングは実際にも滑るように速く鋭く行
うことができるのだろう。花弁のような、翼のような、羽のような
暗色の二枚のものが、世界もろとも流れ去ってしまうような感じで
描かれた「for many are called,…」という
大作(館は小品より大作の方がずっといい。筆の勢いや流れが存分
に発揮されるからだろう。そのために平面が流れに沿って拡大する
ような印象さえ受ける)は、まずその速さが圧倒的な作品だ。写真
の「lovers of…」にも見えるように、縦に絵具が流れて
いることももちろんスピード感を増している。しかし、ドローイン
グがいくら速くても、作品にその速度が残っているかどうかは別問
題だ。ここでぼくは気づくことができた。館の作品は痕跡なのでは
ないだろうかと。例えば何か(蘭か蝶か)を、何かがものすごいス
ピードで過ぎ去り、その痕跡を蘭か蝶を含めた空間そのものが受け
てしまっている。そう思って見ると、館の作品の一種異様なセンチ
メンタルも理解できる。−それはもう過ぎ去ってしまったのだ!と
いう意味で。過ぎ去られてしまった生命体の寂寥、空漠を描いてい
るといえばやや批評の言葉としては安直に過ぎるかもしれないがそ
の深さにおいて館の表現は成功しているといって間違いない。