1992.1 BT美術手帖 展評
阪急百貨店 アートジャンクション 6

長谷川敬子

 周囲の比較で相対的に成立するのではない、いわば絶対的な光と
闇は存在するのだろうか。そしてそれらをキャンバス上に定着させ
ることは可能だろうか。今月行われた館勝生の一連の作品をみて、
そんなことを考えさせられた。以前の作品は、暗い画面に立ち現れ
る独特の形態が植物あるいは羽といった有機的な何かを思わせるも
のであった。具体的には解釈が付随する。館の作品にとって解釈に
道を開いてしまうことはマイナスの要因になっていたように思う。
最近、丸いかたちが描かれるようになったのも、植物や昆虫のイメ
ージを与え続けたことへのひとつの回答であるともいえる。
 またそれまでの館の作品を成立させる大きな要素であったストロ
ークを、昨年の個展以降消すことが意図されるようになり、絵具の
物質感が希薄になってきている。
 具体物の形態から離れ、物質感から離れること。館の作品は即物
的、視覚的な強度を減じる方向に進んできた。館のいう「普遍的な
イメージ」たりえるイリュージョンは作品を構成するすべての要素
が視線の裡で統合されて生成するものであるのだから。
 この結果、見方によっては視覚的にやはり強度が足りないように
感じられる。が、同時に画面は清冽な透明感を獲得した。そして、
この透明感によって引き寄せられつつあるのが圧倒的な光、あるい
は闇ではないかと思う。
 光と闇を目でみて捉えるとき、周囲との対比によって相対的に認
識しているのではないか。館の作品においてこれらは「気配」とし
てキャンバスの上に存在し、他方との対比によらず単独で伝わって
くると感じられる。ほの暗い画面上の明るい色面という単純な対比
を越えて各々が「光の気配」「闇の気配」を備えている。それはた
とえば「闇」とい言葉から連想される暗黒、混沌などの不透明なイ
メージではなく、昇華された透明な境地としての闇といえるような
イリュージョンをたたえていた。たとえばそれが「幻影」であった
としても、幸福な体験として記憶できるものであった。
 なお「アートジャンクション」展は阪急百貨店の一階ウィンドー
を使って現代美術の作品を紹介するという企画で画廊での展覧会と
は異なり不特定の通りがかりの人びとが作品を目にする機会を提供
し続けている。