1991.10 中央公論 表層の冒険

谷川渥

「館勝生−可視性の謎」

 「抽象絵画」とはなんだろうか。それはわれわれがこの世界で知
覚する事象を再現しない絵画のことである、というのが一般的な答
えだろう。しかし抽象の語源がラテン語のアブストラヘレ、すなわ
ち対象の構成要素の内からあるものを他から切り離して抽き出すこ
とにほかならないとすれば、三次元的な対象を二次元的な平面の上
にうつ(移=写)す絵画という芸術は、はじめから抽象という操作
を前提としているといってもいい。それは対象の量塊性も肌ざわり
も匂いも、ときには色合いさえも捨象した上である種の視覚的仮象
性をのみめざす芸術なのだ。抽象絵画という言葉は、それゆえ、多
かれ少なかれ「抽象的」な絵画のなかでも、とりわけ「抽象」の度
合いの強い、いわば第二段階の「抽象」の操作を施された、したが
って人がもはや画面上に名ざすことのできる対象を認知し得ない絵
画に対して用いられるということになろうか。実際、モンドリアン
の「樹」の連作などは、外界の実在的対象が認知的特徴を徐々に失
って、ついにはそこに線的形象からなるひとつのまぎれもない「抽
象絵画」が達成されるプロセスをまざまざと示してくれるだろう。
それはあまりにも見事な「抽象絵画」の物語なのだ。
 館勝生の作品を前にする時、しかしわれわれはこうした物語が必
ずしも一義的に通用するわけではないことを感じざるを得ない。な
ぜなら、館の作品は「外界」の知覚的対象が認知的対象を失って抽
象化したその姿を定着したというよりは、むしろ逆に何か形ならざ
るものが形をとろうとするその束の間の場面をとらえたもののよう
に思われるからだ。その意味で館の作品は、いや彼の作品をひとつ
の典型とする現代の少なからぬ「抽象絵画」は、カンヴァスの特権
的な場とするひとつの出来事の軌跡にほかならない。もとよりその
出来事は、あくまでも視覚的出来事である他はない。メルロ・ポン
ティがいみじくもいっているように「ラスコー以来今日まで、およ
そ絵画は純粋であろうと不純であろうと、具象的であろうとなかろ
うと、<可視性>の謎以外のいかなる謎をもまつりはしなかった」
ことは確かだからである。
 この<可視性>を、画家自身とともに「イメージ」という言葉で
呼ぶこともできる。このイメージを、画家は石彫のようにまわりを
削っていくことによって浮かび上がらせるという。それは丁度、空
中にあって目に見えなかった何ものかに雨があたり、その輪郭がほ
のかに浮かび上がるようなものだといってもいい。形なきものが形
をとろうとするその瞬間の視覚化のために、画家は暗緑色の絵具を
垂直に走らせ、その垂直のストロークに抵抗するかのように、カン
ヴァスの白地を生かした薄塗りの部分を画面右下方に大きくとる。
地と図という二元論に解消されぬその独自の画面を前に、われわれ
は「可視性の謎」という言葉をあらためて思いを致すことができる
だろう。