1990.11 ART&CRITIQUE No.14
ギャラリー白 個展

那賀裕子+貞彦(美術評論)

「感情の問題ではなくて・<地>の成立」

 かつて80年代の新しい現代美術シーンを前にして、作品におけ
る“感情の問題”が語られたことがある。ミニマリズムの70年代
から激しい80年代アートへの転換期にあたって、その趨勢を“感
情の問題”においてみるということであった。いつでも、しかしな
がら“感情の問題”が語られるという時は、現代美術シーンが微妙
な段階にいたったことを意味している。問題情況の推移だけが明ら
かであって、問題がみえてこない場合であえる。たとえば、抽象が
アンフォルメルの直前に「抒情的抽象」といったものに帰結してい
って、問題そのものが収束するひとつの最終段階を迎えるといった
ことであり、さもなければ、美術評論家の側における問題意識の終
息といった場合である。いま館勝生のつくりだしつつある画面にお
いても感情の問題が語られている。“関西ニューウェーブ”の一端
を担ってきた館の、ここのところのペインティングに、絵画的感情
が語られているのは問題そのものが収束しつつあるということなの
か。80年代後半における問題情況の推移はさまざまな展開をみせ
ており、いうところのニューペインティングの収束がそれぞれの作
家に応じてさまざまに帰結しているということは確かである。館の
場合も、感情の問題が語られるほどに微妙な成熟した段階にいたっ
ているということではある。
 館のペインティングのタッチはアクリルから油絵の具に変えて以
来ますます筆使いの激しさを加えて、画面全体ではなく右下あるい
は左下に、斜めに重畳していたため、はじめからそこに何らかのイ
メージが浮かび上がる可能性はもっていたといってよい。色彩の過
剰な時代にあって、暗緑色などの決して豊かではない色彩で盛り上
げられた館の画面に、昆虫とかウツボカズラとかのイメージがみえ
てくるというのは自然である。80年代後半の問題状況としても、
ペインティングのタッチからの、そのような小動物や植物を連想さ
せる有機的なイメージの発生は(そして感情の発生も)きわめて一
般的な事であるといってよい。
 しかし、館の場合は、背景の<地>から何か有機的なイメージを
<図>として発生させるというところへそのまま進むのではなく、
なおペインティングのタッチに拘泥していたようである。一時、あ
たかもペインティングのタッチがよりどころを求めるように、それ
は、ちょうど昆虫イメージがとまる樹木の枝のように、そして、お
そらく、児童画の初期段階に現れる「ベースライン」のように、縦
に走る線が館の画面に現れるのである。館のペインティングにおけ
るひとつの転機の兆しを示していたのであるが、ここにきて、それ
まで余地としてあった左あるいは右上部の空間が特有な喚起力をも
ちだしたのである。
 ペインティングが、塗り込められていって成立した、渋い黄色の
<地>が思わぬ喚起力を示している。有機的な<図>が、何かの感
情を喚起するというのではなく、まさに色面としてある館の画面の
<地>が感情を喚起するまでに問題をはらんできているのである。
ここに成立している色面はたとえばとても感情的であった「ペイン
タリーな抽象」の激しい画面と比較できるのであって、またロスコ
のような(宗教的感情の横溢が語られるが)色彩の場となってしま
った色面、あるいは、あらゆる感情を拒絶して、表情のないミニマ
ルアートにおける色面とも対比できるひとつの質を占めているので
ある。これも「新日本主義」(「美術手帖」1990年3月号の拙
論参照)と呼ぶべきか。われわれに馴染みのある余白の絵画的空間
であって「ペインタリーな抽象」の、表面において<地>のように
なった全面の<図>といったものでなく<図>と等価な力をもった
<地>の絵画空間である。