1990.3 ART&CRITIQUE No.11 京都芸術短期大学ギャラリー楽 AC’89−予兆の現在 吉岡留美 「時間・イマージュ」 館は、描き続ける作家である。追い求め続ける作家である。執拗 に、繰り返し繰り返し、倦むことを知らず。ここ何年かの彼の仕事 を見続けて感じるにはそのことである。 確かにその画面は見かけ上変化している。ぼうとした暗闇を背景 に、生物の断片のような形が立ち上がる、ほとんどモノクロームに 近い画面。タッチがより荒々しくなり、ストロークにスピードが増 し、色彩が加わった画面。さらに、大胆に分断する垂直の線=スト ロークが導入され、形がそれらしさを失って、むしろ光と闇の対比 が明示される画面。その変化の中で作品は視覚的な強さを獲得して きたのだが、この強さは、時に絵具の物質的な量の部分的強調(近 作ではそれがすてられつつある)に拠ったものだったことも否めな い。しかし彼の場合、本来画面の強度を支えるべきもの、終始変わ らず追求されているものは、イマージュの強固さそのものなのであ る。ある形象は個々の観者に呼び起こす、花弁や昆虫の羽、小生物 といった多様な特定のイマージュではなく−むろんそのような連想 は自由だ−いわば普遍的なイマージュ、それ自体。それを明確な言 葉で言い表すことができるのか、“普遍”という概念が、今有効で あるのか、あるいはそもそもそのような何かが存在し得るのか−そ ういった疑問は起こって当然であろう。が、さしあたり次のように 言っておこう。作家の内面で生起し、描く行為を促す何ものか、そ れがとりあえずのイマージュであり、それを瞬間に留めようとして 彼は描くのだと。だが定着の行為は常に遅れ続ける。そしてその遅 れのうちに、当初のイマージュは微妙な変容を見せ、ある深まりを 得るだろう。逆に言えばキャンバス上での固定化は先送りされる。 だからこそ描き続けるのだ、一枚のタブローから次のタブローへ、 さらに次の一枚へと。瞬間、瞬間は流れ去る。留められ得るのはす でに、過去に他ならない。ここに現れるのは、時間という問題圏で ある。 時間の哲学者ベルクソンの卓抜な読みを記した著作の中で、ドゥ ルーズは現在と過去とについて次のよう解釈を示している。現在は 存在しない。存在するのではなく、活動しているのだ。これに対し 過去は存在する。つまり現在について、すでにそれぞれの瞬間にそ れが「あった」と言わなくてはならず、過去について、それが「あ る」、永遠につねにあると言わなくてはならない。私たちはこの質 的に異なった二つを連続する二つの時間と考えてはならない。現在 は同時に過去でなければ過去になり得ず、過去はそのときの現在と 同時でなければ決して構成されない。それらは共存する二つの要素 なのだ。過去が過去であるための基準としての、過ぎて行く現在と 存在することをやめず、それなしでは現在が過ぎて行くことのでき ない条件である過去との同時性。さらにそれぞれの現在と共存する のは、全体としての統合的な過去である。様々な深さのレベルにあ り、段階にあるそれぞれの過去は、おのおの他と切り離されてある のではない。どのレベルも全体を、収縮と弛緩とによって含んでい る。私たちのすべての過去は、あらゆるレベルで同時に運動し、己 を把握し、反復する。そのとき逆説的に現在そのものが過去の最も 収縮したレベルであることになる。 館の一連のタブローはこのような現在−過去、共存−反復、収縮 −弛緩の潜在的な在り方を現前させているものではないだろうか。 彼が描き始めるとき、そこにはすべての過去が、言い換えれば、そ の時その時のイマージュがすべて収縮・統合されて常に“ある”。 彼のタブローの前に立つ時、私たちはそこにある彼の作品のすべて の過去を収縮した現在という時点で見る。先に述べたような多様な 特定のイマージュを引き出し得るのも、様々なレベルにある過去が 一挙に現在化している故であろう。そして描き続けられる限りそれ らは己を捉え直し、反復し、そうしてある強固さを獲得していく。 私たちは“普遍的イマージュそれ自体”を、その結果到達すること のできる固定的な何かと見倣すべきではないのだ。むしろ、“希望 もなく、恐れもなく nec spe nec metu”描き続 け求め続ける、彼の絵画の営為自体が“普遍的な”試みであること を、見てとることができるように思われるのである。 |
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