1988.11 ART&CRITIQUE No.8
ギャラリー白 YES ART 7

安田篤生

「肯定すること・生成すること」

 この8月、二度にわたってイエス・アートの会場に足を運んだ。
戸外の夏の暑さとはまた違う熱い空気が、画廊の内部にこもってい
たように思う。その熱さはどことなく予定調和じみてはいたものの
それなりに刺激を与えてくれた。
 82年に始まったイエス・アートは今年で7回目を迎えた。昨年
は「デラックス」と銘打ち、東京にも会場を広げたが、今回は以前
のように大阪のみの展示である。2週にわたって総勢20人が出品
し、常連といえる作家もいるが半数が今回初めての参加であった。
さして広くはない画廊の空間をびっしりと埋め尽くした作品群。絵
画の形式を守っているもの(たとえば館勝生)や、壁面からレリー
フ状に突出したもの(中川佳宣など)から、床に置かれた立体(池
垣タダヒコなど)まで、多種多様な作品が並ぶバラエティショーで
ある。イエス・アートの空間に入り込んだ者は、まずその量を、バ
ラエティを呼吸することになる。そして、それぞれの作品が伝播す
る多様な力の波動は、ノイズのように参入者の耳を刺激する。
 今年で幕をおろしたアート・ナウもそうだったが、現代美術の集
合展は大なり小なりこのような多種多様・自由奔放な表現が混在し
ている。しかしグループ展という形式の制約もあろうが、みかけの
奔放さのわりに、意外におとなしく個々の作品のフィールドにおさ
まっているようでもあった。とりあえずは自己の方法を肯定して、
多様体を多様体として呈示し、交通の場を確立しようというのだろ
う。だが、作品としての存立の根拠に盲目になり、たちの悪い自己
欺瞞に陥るような「イエス」にならないことを望む。
 そんな印象を持ったせいかも知れないが、全体に水準が低いとは
思われなかったが、出品された中では、オーソドックスな形式を守
りながら力量を示している作品がかえって眼についた。
 絵画の形式に忠実な作家といえる館や山部泰司などは、いずれも
あるモティーフを一貫して描いている。そして彼らはイメージの復
権というべき最近の絵画の動向を表してもいる。主に垂直方向のタ
ッチによる深い色彩の広がりを背景に、白っぽい不定形で有機的な
形象が浮かび上がる館の絵画は、落ち着いた中に重い緊張感を漂わ
せている。おそらくこの緊張は、制作の途上でイメージが具体的な
ものとして生成してくる胎動の刻印だ。山部は対照的に鮮やかな色
彩を使い、花弁という明瞭なモティーフを描く。浮遊物のように画
面に咲く花はきわめて官能的で生命感にあふれている。だがこの花
弁は物語(言語)に織り込まれるイコンとしてよりも、絵画的な力
を生み出すものとして扱われている。ふたりとも、積極的に「絵画
的」であることにこだわり、それを肯定しようとしている。その意
味では、まさに「イエス」アーティストであろう。彼らは使いふる
されたともいえる抽象/具象の二極のはざまを揺れ動きながら、そ
の波動で絵画空間を振動させようとしている。
 ペインタリーに固執するこのふたりの傍らに、たとえば中川と川
島慶樹を置いてみると、ぞんざいに共通項でくくってしまうのはよ
くないが、現在のあるひとつのベクトルを見出せると思う。再生紙
を材にした中川の板切れのような作品は、表面に植物などの形がプ
リントされ、ただちに「化石」の一語を連想させるだろう。そこか
ら永遠の時間や記憶といったものが導かれ、詩的な叙情性を漂わせ
る。また、木・石・金属などで構成した川島の造形は、館の絵画に
おける形象のように再現的な要素をかなりそぎ落としてはいるもの
の、いずれも有機的なモティーフを用いている点で似通っている。
それらのモティーフは具体的なものの代替物としての事物のレベル
で意味するのではなく、また単なる観念の表象としてではなく、イ
メージの域にあることによって原生的なものを指向するものといえ
るだろう。支持体の上に生み落とされるイメージは、それ自身、乾
いた絵の具のかたまりといった物質でありながら、より以上のもの
として現前する。そのようなイメージを獲得できたとき、作家は自
分の顔を発見できたと言える。そして、現在絵画の形式の中で力を
蓄えつつある作家たちに、作品を成立させる鍵としてこの原生的な
イメージの生成が共有されているのは、ひとつの傾向であると思え
る。
 もちろんそれぞれの作家たちにおけるイメージは、ある部分で共
通するものを持ってはいても、その意味・機能には差異がある。そ
こに現れるのは、作家が呈示することのできるビジョンとでも呼ぶ
べきだろう。そして作品が「美術」の内部に閉じこもることなく、
「外部」に開かれていく可能性を持ち得るとすれば、このビジョン
のリアリティによってであろう。その可能性は、作家の持続的な制
作の中で検証されていかなくてはならない。
 ほんの一部についてしか触れなかったけれども、今年のイエス・
アートに集まった20人は、模索の段階にあるものもみられたが、
それらが今後どのように展開し、どんな地点に収束していくか、期
待してよさそうである。