2006.5
ギャラリー白 ペインタリネス2006 カタログ

尾崎信一郎(鳥取県立博物館美術振興課長)

「ペインタリネスのために」

「ペインタリネス」という呼称のもとに集められた七名の画家の絵
画を一覧する時、表現は多様でありながらもそこになにかしらの統
一感をうかがうことができるように思われる。この漠然とした共通
性をどのように説明できるだろうか。それらは映像ではない。再現
的なイメージを含まない。幾何学的な形態を含まない。これらの絵
画の特性は「〜ではない」というネガティヴな言明として浮かび上
がる。優れた絵画を否定形によってしか記述できないという事態は
今日の絵画表現が置かれた苦境を暗示しているだろう。かつてロザ
リンド・クラウスも70年代に出現した立体作品の特性を非建築と
非風景という否定性をとおして論じた。常識的な彫刻観を覆し、い
わば未視感として登場したこれらの立体に対して、同じ否定性を徴
されながらも、これらの絵画はむしろ一種の既視感を湛えているよ
うに思われる。例えば岸本吉弘の画面からアドルフ・ゴットリーブ
を、善住芳枝の近作から白髪一雄を連想することは不可能ではない
し、そのような類比はなんら作品の魅力を減じるものではない。
1980年代以降、絵画のリヴァイバルが高らかに謳われたが、実
際には「ポスト・モダン」という風潮を口実に全てが許された弛緩
した状況の反映にすぎなかったのではなかろうか。プライヴェイト
な図像の恣意的な導入、サブカルチャーからの引用、古典や先達か
らの必然性なき借用が、絵画の歴史性に無自覚な論者によって日本
美術独特の伝統を継承する表現と称揚された。臆面もなく繰り出さ
れるイメージの垂れ流しに私は絵画という表現の荒廃を感じずには
いられない。モダニズム絵画が平面化と物質化という袋小路に迷い
込んだ後、新しい可能性としてもてはやされた「ニューイメージ」
や「スーパーフラット」は絵画史に積極的な貢献をなしえたであろ
うか。価値判断なき相対主義に侵された絵画は今や一種の無政府状
態にある。
もはや抽象と再現という区別に積極的な意味は認められないが、こ
こに集められた画家たちは広い意味における抽象表現の内部で自ら
の方向を模索している。彼らが見出した手がかり、表現の指針は展
覧会のタイトルが暗示するとおり、絵画であること(ペインタリネ
ス)としか共約しえない多様な広がりを示している。近年隆盛する
再現的な表現がイメージの強度を畢竟絵画というメディウムの外部
に求めざるをえず、何事かを物語ることによってしか自らの存在理
由を開示しえなかった点が明らかとなった今、もう一度、絵画をそ
の形式において強化する試みに関心を向けることはきわめて正当で
あろう。先に述べた既視感もこのような探求の方向を暗示している
だろう。そして注目すべきは七人の画家たちがキャリアの長短はあ
るにせよ、かかる姿勢をデビュー以来一貫して保持している点であ
る。軽佻浮薄なイメージが横行する時代に、色面と線によって絵具
と身体によって絵画を地道に構築する仕事は決して容易ではなく、
試行錯誤の連続であっただろう。しかし粗製濫用される根拠なきイ
メージの洪水の中で、絵画の形式の中にくっきりと像を結ぶこれら
の絵画は絵画であること、ペインタリネスこそ自らの存在理由であ
ることをあらためて確言するのである。