2001.4 ギャラリー白 ペインタリネスX カタログ 那賀裕子+貞彦(美術評論) われわれにとって自明な〈絵画=ペインティング〉というのは、 16世紀ルネサンスのヴェネツィア派においてはじまったといえる が、その可能性の射程としては、どこまでひろがりをもっているの だろうか。いま、21世紀に突入した現在にあって、なお、新たな ペインティングの可能性をみせているとすれば、それは驚くべきこ とである。 われわれはペインタリネスの射程の中に、なお、いるということ なのであるが、しかし、問題としてはかなり複雑である。ヨーロッ パ近代の〈絵画=ペインティング〉は、そのペインタリネスという “塗り”の側面を異常に発達させ、じつに多様なひろがりをもつ豊 穣な達成をみせてきたのであるが、それは、絵画の見せるべき〈内 容=図像〉のために〈形式=ペインティング(塗ること)〉を効果 的に選択し、それを強調してきたかぎりにおいてである。 そのような意味では、あきらかにペインタリネスの射程としては 20世紀はじめの「表現主義」の展開までということになる。激し いタッチによる絵の具の塗りの軌跡が、様々な図像の表現をみせて くれたということである。 いまわれわれがペインタリネスの射程の中にいるということは、 〈内容=図像〉抜きの、まさに〈形式=ペインティング〉だけの展 開をもつひろがりにおいてであって、20世紀なかばアメリカにお ける「抽象表現主義」以後の展開としてのフォーマリズム(形式主 義)が問題であるということである。もはや、なんらかの〈内容〉 の効果的表現としてのタッチが問題なのではなくて、絵の具の置か れる画面そのもの、つまり、キャンヴァスの表面のつくられ方とい う〈形式〉が問題であり、さらに、その〈形式〉の、複雑で多様な マリエリスムがとても興味深いのである。 80年代には「新表現主義(ニューペインティング)」として、 たとえば、オブジェの嵌め込まれた触覚的な表面レヴェルと、視覚 的な画像の成立するペインティング(じつはドゥローイング)・レ ヴェルとの二重性において〈形式〉がつくられたりしたのである。 そのようなペインタリネスの射程の中に、ここでの様々な〈絵画 =ペインティング〉の問題もあるといってよい。倉科勇三は、筆に よる塗り(ペイント)のタッチではなくて、巨大なキャンヴァス表 面に指で直接上から下へと“引く(ドゥロー)”行為が画面をつく っていて、この、指跡としての白い線と黒い絵の具がつくる表現の 〈形式〉に意味があり、面白さもある。さらに指跡がうねるように 彎曲化されていって、いま倉科固有の表現におけるペインタリネス の射程が気にかかるところである。 枝光由嘉里のもつペインタリネスの射程というのは、ペインティ ング(あるいはドゥローイング)の行為が問題である倉科と違って 絵の具の定着しにくい「亜鉛板」という支持体における〈形式〉が はらむ可能性のなかにあるといってよい。キャンヴァスとは違う支 持体への行為として樹脂とか、スプレーを使ったりマスキングした りの、とても不安定なマニエリスムが問題なのである。不安定なま まにその〈形式〉をとどめておくべきか、やはり洗練されていく方 向でペインタリネスの射程をきわめていくのがよいか。 ところで「抽象表現主義」における、オールオーバー(全面)に 置かれた絵の具の表面から、われわれの時代におけるペインタリネ スの射程がはじまっていることを考えるなら、大杉剛司の〈絵画= ペインティング〉は、そこからの歴史をもった表面作りとして安心 してみていくことができる。不透明な絵の具=物質のつくる堅固な 表面性や、反対に筆跡のみえない「平面性(フラットネス)」(C ・グリーンバーグ)においてでなく、丹念にオールオーヴァに透明 な絵の具を塗り重ねていく大杉のペインタリネスは魅力的であり、 それはマニエリスムとしても、高度で安定しているといわねばなら ない。 また大城国夫においても、“触覚的な(物質的対象における)表 面性”と、“視覚的な(〈図〉的対象における)平面性”との相克 から離れて、オールオーヴァ画面を前提としてのペインティングが 縦横になされていて、やはり安定したものになっているといってよ い。茶のペインティングと黒のペインティングが、いずれが〈地〉 なのか〈図〉なのかわからないまま力強く画面に拡げられていて、 確かな〈絵画=ペインティング〉の平面をつくっているのである。 その意味では大山絵美の、はっきりとしたドゥローイングの線で 描かれた円形などの〈図〉の形態や神経を使っての画づくりの画面 と、佐藤有紀の、手触りのある物質的な表面あるいは洗練されたド ゥローイングの線を使って“構成でない構成”がなされている画面 は、さらに安定しているというべきであるが、かえってペインタリ ネスの射程の中での展開の歴史性が気になってくる。 あたかも「絵画=タブロー(美的関係表)」としてつくられる古 典的な抽象画を思わせるほどに安定しているのである。オールオー ヴァ画面の中で高度な表面づくりがなされていって、線や形態や色 面がくっきりと〈形式〉そのものとして成立してくるとき、かえっ て〈絵画=ペインティング〉のマニエリスムは先祖がえりしてしま うということなのだろうか。 石川裕敏は、基本的には水平に塗られた黄色の絵の具の層によっ て、やはりたしかな〈絵画=ペインティング〉をつくっているが、 この安定感は、一重の物質的な表面性や視覚的な対象としての平面 性によるのではなくて、また〈図〉と〈地〉との関係において成立 しているのでもなく、多重の絵の具の層による、いわば構造的な平 面の力によるものといってよい。 堅固でかつ安定した表面をつくる場合、ところで、あきらかにオ ールオーヴァにペインティングがなされた色面の上に、ドゥローイ ングの色線を重ねて描くというマニエリスムが重要である。そのよ うなドゥローイングをもち込んでの構造的な表面づくりが、ペイン タリネスの射程をひろげてきたというべきであろう。 左右にひろがるグレイの色面の上に、やはり左右に、自在にのび るドゥローイングの線を重ねて描いていた大西久や、また“おつゆ 描き”の繊細な淡い色面づくりの上に何ヶ所もの“おつゆ”の垂れ さがる太いドゥローイングの線を重ねて描いていた渡邉野子は、ま さにそのようなペインタリネスの射程において、たしかな〈絵画= ペインティング〉をつくっていたのであるが、―しかし、いまその 進展の中で思わぬ画面づくりにいたっている。大西は奇妙な具体性 をもった図像を描きだしており、渡邉はかつての面を曖昧にして微 妙ではあるが、すくなくとも明白ではない「Obvious Pl ace(明白な場所)」をつくっているのである。 大西も渡邉も、進展とはいえない進展をみせているのであるが、 もはやアヴァンギャルドではない「現代美術」の展開は、閉じられ た場所のなかでマニエリスムとして高度化するほかないということ だろうか。 田中美和も進展とはいえないような進展をみせていて、ペインテ ィングでもあり、ドゥローイングでもある「美和ペインティング」 によって、あるいは「美和カラー」とでもいうべき、きわめて特徴 的な円形状の流動的な流れがつくられていたのが、いまそれを上下 にびっしりと塗って、オールオーヴァ(全面)意識の強い〈絵画= ペインティング〉をつくっているのである。かつての70年代から 80年代への進展とはまったく意味のちがった進展がはじまってい るのかもしれない。 ペインティングの色面の上に、ドゥローイングの色線を重ねて描 くというマニエリスムをはやくから確立して、確固とした〈絵画= ペインティング〉をつくってきているのは善住芳枝である。ペイン ティング(面)のなかでドゥローイング(線)が意味をもってくる というのは、すでに「表現主義」においてもあったことだけれど、 ここでは、つまり善住の場合ペインティングをいわゆる〈地〉とし てドゥローイングの線が自立して絡まって〈図〉をつくっていて、 すこぶる魅力的な、〈絵画=ドゥローイングでもあるペインティン グ〉が成立しているといえるのである。 館勝生にあっては、ほとんど〈絵画=ドゥローイング〉といって もよいような画面づくりがなされていて、面的なペインタリネスの 問題はここでは部分的でしかない。白いキャンヴァス地をそのまま にして、虫か羽を連想するようなイメージであるとか、また絵の具 =物質などの塊が置かれていたりして、それらが力強いドゥローイ ングとして束ねられていて、高度なドゥローイング〈形式〉をみせ ているのである。 ペインタリネスの射程ではない、いわば、“ドゥローイングの射 程”というのは、そのはじまりがアジアにおいては一千年以上もの 昔からであったように、はるか悠久なるスパンをもっていて、それ は、なお、21世紀においても多様な可能性をもっているといえそ うである。 やはりペインタリネスの射程の中で、20世紀最後の四半世紀に おいて、ドゥローイングの射程もはらんで〈過剰なる絵画=過剰な るマニエリスムとしてのペインティング〉を帰結したことが問題で あるかもしれない。圓城寺繁誉の〈過剰なる絵画〉は、様々な、多 様な表面づくりの上にのせられた強い赤い帯(―これはペインティ ングというべきかドゥローイングというべきか)が画面の前面には りめぐらされるというマニエリスムが形成されていて、全体として 華麗な装飾的な絵画を帰結しているのである。 それは80年代の「新日本主義」というべきものの進展であるの はたしかなようである。おそらく、それはペインタリネスの射程の 最終段階におかれていって、新たに70年代にはじまるドゥローイ ングの射程にあっては、なお、まだまだ、初期段階に位置づけられ るというべきではあるまいか。 また、平面を逸脱して凹面状のオブジェの表面に成立するペイン タリネスをみせる原田要は、まさにペインタリネスの射程の最終局 面において成立する〈過剰なるマニエリスム絵画〉の、もうひとつ の別の可能性をみせているといってよい。平面ではなく、オブジェ にペインティングは、〈絵画(平面)〉ではなく〈彫刻(立体)〉 において、なおペインタリネスの射程の大きさを示しているのかも しれない。原田もまた、さらなる進展を企画して、―それはほんと うに進展となるのかわからないけれども、確実に、ペインタリネス の射程の限界を突破しようとしていることはたしかなようである。 |
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