1995.6 ギャラリー白 ペインタリネス 案内状

長谷川敬子

「自由な”強さ”へ」

 「強さを」感じさせる絵画。どのような作品がこれにあてはまる
のか、簡潔に定義することは難しい。描く側が、そして鑑賞する側
が追い求め続けてきたものであることは間違いない。だが「強さ」
を感じさせる絵画が魅力的であればあるほど、それを語ることはい
っそう困難になっていく。
 表面や物質性の過度の強度が強さとまっすぐに結びつかないこと
を、私たちはすでに知っている。紋切り型のペインタリネスはもは
や力を持たない。強固な構図、目を奪う色彩、過剰なイメージ、こ
れらも単独で強さを表現することはできない。
 生き生きとした自由さや動き、伸張し、展開する自在な空間の表
現。善住芳枝が最近みせ始めた変化も、自由な画面を実現するため
の試みとしてとらえる事ができる。面を塗る行為として存在したス
トロークから、線として自立したそれへ。構築的な画面構成を常に
意識してきた彼女の作品に、手の動きののびやかさが付与されるこ
とで、強度に多様さが加わったように感じられる。
 渡辺信明の新作では塗り重ねられた強固な地の上で、ドローイン
グのような自由な線が互いにやり取りする。みる者は完了形の作品
ではなく、そこに至った運動をみて、考え、絵画空間の動きを予感
することができる。田中美和は従来から自分自身と画面の間に漂う
「気」の動きを視覚化し続けてきた。彼女の作品を前にすると、画
面と描く側の対話から生まれてる呼吸のようなものが、みる者も一
緒に包み込む。過去に彼女の作品を特徴づけていた渦巻くような、
求心的な形象から、近作において緩やかな流れをみせ始めた「気」
は、自在に画面を動かし、空間に浸透する。
 だが線の要素を安易に用いることは絵画の弱さと結びつく恐れの
ある行為でもある。画面の強度を保ちながら、そこに自由な動きを
もたらすものとして線を作用させること。この作家たちの試みは、
それぞれが、作品の展開の中で絵画の物質性と葛藤した経験を持つ
からこそ、目を引きつけるものとなっている。線によってもたらさ
れる画面の動き。これは、物質とイメージが強調して作り上げられ
た絵画の、一つのありかたとして捉えることができないだろうか。
 物質とイメージが拮抗し合いながら絵画という現実を形作ってい
く経過について考えてみる。両者の葛藤と強調が時間の厚みの中で
みえてくるとき、みる者は強さを感じとる事になる。絵画性に裏打
ちされたイメージ、イメージによって自在に成り立つ物質性を定着
させたとき、単なる平面である絵画は長い凝視を受け入れることが
できる。肉体を持たない、絵画性に裏打ちされないイメージは、絵
画にとって本質的なものではない。同様に物質性が生硬に突出した
絵画も、魅力的とはいえない。
 館勝生は従来からあるイメージを執拗に描き続けている。その形
態から羽根、昆虫などを想起させる有機物がたどる、生成あるいは
消滅という経過を捉えるために。そこでは透明な絵の具が用いられ
、画面は光と闇という対比を際立たせていた。だが今回の出品作で
は不透明な色彩を用いて画面の中の形態の一部を覆い、溶解させ、
生成あるいは消滅の新たな表現を試みるという。細井まさひろの作
品は、かなり頻繁に外見を変化させる。しかしイメージとそれにふ
さわしい描き方を模索している跡が、常にそれぞれの作品からみて
取れる。山部泰司はテンペラを用いることで、キャンバスの白を作
品化する。こうして画面の奥から生まれる光と手前から投げかけら
れる光が干渉し合い、鑑賞者の空間を受け入れる。油絵の具であら
かじめ描かれた線は身体のサイズや動きと深く関わっているが、そ
こに面をみいだす思考のプロセスが加わり、画面は単に身体性のみ
では語られないものになっている。
 ここで冒頭の問いに戻ってみる。どのような絵画が「強さ」を感
じさせるのか。今回の展覧会は「強さ」の多様なありかたを示すも
のになるだろう。時には対立し、時には分かつことのできないイメ
ージと物質が画面上で結びつくとき、絵画は「強さ」への第一歩を
踏み出すのだろう。さらに進んだ答えを明快に示すことは難しいけ
れど、それでも問いかけずにはいられない。みる側の勝手な言い分
だが強くて柔軟で魅力のある絵画をみることは、大きな愉しみを与
えてくれるから。