1994.5
ギャラリー白 丸山直文・館勝生展 案内状

尾崎信一郎(兵庫県立近代美術館学芸員)

「絵画の時制」

 一瞥した限りではいささか意外に感じられるかも知れないが、今
日、絵画という表現の可能性を考える上で、館勝生と丸山直文の作
品は共通の焦点を結ぶように思われる。かつてフランク・ステラは
「私の仕事は私が1936年に生まれたという事実によって運命づ
けられている。」と述べた。共に1964年生まれの彼らの作品に
うかがえる暗合は彼らの絵画が時代、すなわち歴史と無関係では有
り得ないことを示唆し、ひるがえって、かかる意識こそが彼らの新
作を来るべき絵画へ、絵画論へ差し向けるのである。
 80年代後半から90年代初頭というまさに「運命づけられた」
時代の中で、彼らが自己の絵画を確立するにあたって、モダニズム
末期の絵画の閉鎖とインスタレーションにみられた作品形式の解体
の進展は自明の前提であった。このような難局を打開する上で、彼
らは共に安易な図像の導入を排し、実現されるべきイメージを彫琢
した。無論二人が描くイメージは大きく異なる。館は比較的薄塗り
のあいまいな背景の中に、時に濃厚なストロークを伴った有機的な
形象を不分明に浮かび上がらせ、丸山はステイニングによる鮮やか
で茫然とした形象を画面全体に展開させた。しかしこれらの相異を
越えて、二人が実現したイメージは共にひとつの重要な契機を決定
的に宿しているように思われる。このような契機を私はイメージの
現在性と呼びたい。
 いかなる絵画も終えられた何事かの記録といえるのではないか。
端的な例として、過去の神話や事件を描いた歴史画を想起してみよ
う。それは「もはや、すでに」終えられた出来事の表象に他ならな
い。風景画や肖像画も例外ではなかろう。そこに描かれたのは、も
はや存在しな光景、もはや不在の人物の面影である。具象的な絵画
において描かれた事物は常に過去を反映している。しかしこのよう
な特質は再現的な絵画のみに限定されるわけではない。いかなる絵
画も画家がかつて置いた筆の跡を画面の上にとどめたものとして成
立している。ミニマリズムは絵画を物体と読み替え、類似性に代わ
る因果性を絵画の原理とした。しかしそこでも結果として強調され
た絵画表面はすでに何事かが終えられた痕跡に他ならない。再現的
なイメージを徹底的に排除したかつてのロバート・ライマンやブラ
イス・マーデンの絵画表面において、代わって作家の手の痕跡、す
でになされた表面への干渉が生々しくとどめられている点はこの意
味において暗示的である。再現的、非再現的を問わずこれらの絵画
は過去形、過去完了形の時制のもとにある。
 これに対して館と丸山は現在形としてのイメージを提示するので
はないか。彼らの絵画を前にした時、人は何かイメージが、まさに
今、自らと共にあることを生々しく感じる。館が描く有機的なイメ
ージは何事かの出現であろうか、それとも消失であろうか。そのい
ずれでもなく、両者の境界に位置して既に終えられたことと、これ
から始まることを画するいわば瞬間の啓示として実現されているよ
うに思われる。かかる絶対的な現在性こそが館のイメージを言及す
べき何ものからも引き離し、代わって「イメージについてのイメー
ジ」とでも呼ぶべき自己言及的な特質を賦与するのである。一方、
丸山は近作においてステイニングによるイメージの背後にグリット
構造を潜ませて画面の前後方向に微妙な揺らぎを惹起している。同
様に線的な染めをも交差させながらも、色彩の広がりを決して奥行
きへと転じさせないモーリス・ルイスのアレフのごとき作例と比較
するならば、丸山の絵画の独自性は明らかであろう。イメージは拡
散と収縮いずれの契機をも宿しながら宙刷りにされる。画面の揺ら
ぎは純粋に視覚的な効果であり、言い換えるならば観者が作品と共
にあって初めて成立する。既に見られたのではなく、まだ見られな
いものでもない、今見られることによってしか成立し得ない絵画。
 イメージの現在性、今ここで知覚されるべき絵画とは美的体験の
直接性を志向するといってよい。かくして我々は、再びモダニズム
絵画の公準へと回帰する。マネからモネ、そしてニューマンへ、モ
ダニズム絵画の理路の背後には、一切の夾雑物を排して純粋な美的
体験を希求する一つの態度がうかがえる。象徴やテクストを廃業し
て絵画が視覚的に純粋化されたように、そこでは観者の享受体験も
「かつて、すでに」と「いまだ、なおも」のはざま、絶対的な現在
を志向するものである。そして、今日、館と丸山の優れた絵画の前
に立つ時、我々はこのような現在こそ、比類もない視覚の至福の瞬
間であることを知る。