1992.2 ギャラリー白 ペインティング展 案内状

尾崎信一郎(美術批評)

「絵画をめぐる抗争」

 絵画を従来の絵画論の枠内でとらえることの困難さが露呈されて
きた今日にあって、散見される逸脱の徴候を新たな絵画論によって
標定すること。私にとって批評の今日的な課題とはこのような問題
にほかならない。現象の表層に目を向ければ、美術は現在も流動す
るかのようであるが、すくなくとも今世紀において、絵画史とは絵
画の存立をめぐる幾つかの問題群が何度も問い直され、深められて
いく過程に同定することができるのではないか。
 今世紀絵画を通底する圧倒的な絵画論が、フォーマリズムのそれ
であったことは否定できない。その功罪が明らかとされつつある現
在、それを批判することはたやすいが、今日の優れた絵画はなおも
多くが軛の下にある。フォーマリズムの絵画と批評が一つの絶頂を
迎えたのは1960年代のアメリカであり、ミニマリズムを経過し
た今日にあっても絵画はそこで提起された問題からなお自由ではな
いだろう。なぜならそこで絵画と批評がともに主題として据えたリ
テラルネスとの相剋、絵画が物体である限り不可避的にまとわざる
をえない事物性をいかに克服するかという課題は、今回展示される
四人の画家の作品の中で潜在的ながら今なお共通の主題を形成して
いるのであるから。
 強化されたリテラルネスは、70年代の絵画表面に猛威をふるっ
た。その一因を、クレメント・グリンバーグのフォーマリズム絵画
理論に求めることは困難ではないだろう。平面化された絵画は、作
家の意識を画面の表面へと集中させたが、ルイスらによって色面抽
象の可能性が徹底的に試行された後、純粋還元それ自体が目的化さ
れた倒錯した時代にあっては、表面はとりあえず物質と同化される
以外に強化される術をもたなかったのである。しかし既に60年代
においてグリンバーグとは微妙かつ決定的なずれの中に絵画の可能
性を構想したマイケル・フリードは、画面の平面性ではなく形態を
主題化する一群の作品に注目したのであった。ストライプ・ペイン
ティングの時期のステラ、あるいはノーランドやオリツキーらは基
本的にイメージを排除しながらも、画面がはらむ視覚性を強調する
ことによって絵画をリテラルネスから救出しようとした。これに対
し、ミニマリズムを克服した後、今日の絵画はイメージとの接触を
新たな形で再開したように思われる。従ってこれら四人の作家が近
作においてそれぞれイメージの問題へ新たなアプローチを始めたこ
とは、このような文脈において歴史的な意味をもつ。彼らが用いる
イメージは時に写真を媒介としたそれであり、時に有機的、時に抽
象的である。しかし、そこに共通する特質はそれらがいずれも画面
内に安らぐことなく、絵画のリテラルネスと絵画を絵画たらしめる
何ものかとの間の抗争を惹起している点である。例えば横溝秀実が
用いる写真のイメージは、近年流行する絵画と写真の併用といった
エクレティシズムとは無縁であり、あらかじめ画面に定着された映
像という、いわばリテラルなイメージとの間に生起される葛藤が絵
画として実現されているのではないか。あるいは山部泰司が近作で
使用する鞭状の抽象形態は、強化される表面の物質性を克服するか
のように画面内に浅くランダムな揺らぎを生起させる。逆に画面の
物質感が希薄化されつつある館勝生の近作において画面中央に出現
した円形は、なおも明確な方向性を示すにはいたっていないながら
も彼のイメージが支持体の形態とは無関係ではなくなった点を示唆
しているだろう。さらに朝比奈逸人も近作においてイメージを抵抗
なくはらむかつての楕円のキャンバスに代わる矩形の支持体を使用
しているが、これは矩形の画面が必然的にはらむ軸性や矩形性とイ
メージとの間の緊張を高める方向に機能している。
 リテラルネスの強調は、ミニマリストにとっては一つの啓示であ
り、フォーマリストにとっては絵画の存立を脅かす脅威であった。
今世紀の絵画史がリテラルネスの自覚化の歴史であったことを想起
するならば、リテラルネスの克服は、ただちに絵画の深化と見なさ
れるべきではない。おそらく優れた絵画は常に両者の緊張、絵画の
物体性と絵画が絵画であることを保証するなにものかの間の扞格を
伴ったのである。この意味において、ミニマリズム以後のイメージ
はもはや絵画の物質的属性と無関係ではない。イメージが宿るべき
ア・プリオリな場としてではなく、あらゆるレヴェルにおいて反抗
し、克服すべき属性の総体として絵画のリテラルネスは把握されて
おり、一方、新しいイメージは視覚性に代わる原理として絵画内の
抗争に様々の形で積極的に参入している。イメージとリテラルネス
の間に結ばれた新たな関係は、従来の絵画論を超剋する可能性を絵
画実践の側から照らし出すかのようである。