1991.9 ギャラリーQ
出来事としての絵画−館勝生・西山真実展 カタログ

天野太郎(横浜美術館学芸係長)

「出来事としての絵画」

 絵画における記憶。
 当然のことながら視覚活動を通して得られた記憶に限って言う時
意識的にせよ無意識のうちにせよ視覚を通じて生じた出来事が、す
なわち像を結ぶことになる。画家にとって記憶が様々なイメージの
核になることは、さほど珍しいことではない。その場合、記憶は画
家にとってオブセションとなることもあれば適度に操作できるイメ
ージの玉手箱となることもある。例えば絵画におけるイメージと、
それを取り巻く背景を考えてみるとそれらが記憶に集積であり、画
家と我々の間の会話を結ぶ重要な要素となる。その場合、画家が自
己を同一化するものはしばしば具体的に表現されたイメージそのも
のである場合と、それを取り巻く背景自身であることがある。
 館勝生と西山真実の作品において共通するのは、失われた過去の
因習の後の光と影、新たな形象と空間を有している点ではなかろう
か。そして記憶の糸をたぐる心理的な活動の発露というよりは、新
たな視座にたった上での、同時代の情況に対するそれぞれの視覚の
出来事としての絵画と言ってもいいだろう。それ故、かれらの作品
はある種のロマンティシズムの匂いはなく、むしろ即物的なくらい
に視覚と描くということが密接につながっている。
 館の作品はある具体的なイメージを強く表現されたり、あるいは
画面全体の中でかろうじて確認できるくらいにまるで溶け込むよう
に表現されている場合がある。まるで雲の流れで見え隠れする月の
ように、その光によって鮮明に月の輪郭が際立つ時と雲に隠れて、
しかし、かろうじてその光で存在が確認できるような。あるいは昆
虫の羽ばたきのように、激しく繰り返される振幅がかろうじて視覚
に了解できる状態にまで高められている時を想起してみることも出
来るだろう。こうした画家の内面で生じた微妙な揺り戻しは、しか
し精神の動揺ではなく、その時々の視覚の出来事に忠実に従ってい
ることの結果であることをむしろ見抜くべきであろう。
 西山の作品において見られる、植物を思わせるイメージに、例え
ばその寡黙であるが所以に感じられてきたエロティシズムを期待す
ることは出来ない。むしろ、意識的にそうした植物といったものに
込められてきた様ざまな我々の思い込みを排除し、そこにある物と
して物質としての植物を描き切ることに勢力が注がれている。ここ
においても、我々は、おそらくは頻繁に繰り返される画家の秘部と
してのデッサンにおいて経験される様ざまな出来事、そしてそれに
対する忠実なる視覚の存在を否応なく感じるだろう。
 絵画における色彩やある種の形態は、特定の場所や時間のいわば
通過単位であることは承知のことだが、ここではいかなる文化的、
社会的、或いは歴史的文脈においてそれらが位置するかが、我々の
画家との対話において迫られる次の段階であるような気がする。実
際のところ様ざまな経験=出来事から了解された事実によって、我
々は、最良と思われる方法を見いだそうとする。但し、そうした言
わば過去から現在へと方向づけられたベクトルとは正反対の、つま
りは今その時の出来事の持つ完成された世界自体に絶大な信頼をお
くことも決して無駄なことではあるまい。または、我々は画家がか
つて見た木や山といった網膜に写し取られたイメージを再現するこ
とを決して期待してはおらず、視覚の出来事に対する共感やジレン
マの発露をとりあえずは期待することを確認しておきたい。
 そしてさらに今ひとつ、館と西山の作品において具体的なイメー
ジに幻惑されたあとに我々が最終的に感じるのは、実は光であり、
そして当然のことながら影であるということ。この素朴であり物質
の存在を最も端的に我々に了解せしめる隠喩を彼らの作品に強く感
じる最大の理由は、陳腐な表現ではあるが、彼らの作品が極めて直
截なメッセージを孕んだポートレイトであるという点だろう。
 最後になったが我々がこれらの画家らしい画家を得たこと、作品
の中に暗示された絵画の方向性をここで再考する機会を得たことに
対する素直な喜びをここで表明しておきたい。