1990.7
ギャラリーココ FLASH POINT展 案内状

中谷至宏(京都市美術館学芸員)

 闇の中に突如としてきらめく閃光。それは空虚からの”かたち”
の出現であるが、この空虚こそ、潜在的な力の錯綜する混沌の事で
もある。
 たとえば”かたち”の造出に携わる画家という存在は、混沌に緊
張をもたらす圧力装置だと考える事もできるだろう。画布の上に筆
を置くとき、たちまち眼の前の空虚としての混沌はざわめきたつ。
しかしながら、画家自身もすでにしてこの混沌に身を浸していり事
を忘れてはならない。眼も手も、立ち現れたざわめきと共に振動し
ているのである。今回展示される3人の絵画には、常にこの共振に
敏感でありながら、更なる”かたち”の生成に賭ける純欲なストロ
ークの密度を感じ取る事ができるだろう。
 木下佳通代のタブローに現れる張りつめた奥行きの感覚は、スト
ロークによって混沌に与えられた深さの尺度によっている。尺度を
携えた混沌への切り込みは、常に全体への周到な配慮を要請される
であろう。だがその深さが潤いを備えているのは、常に周到さを少
しずつ追い越してゆく身体の過剰さによるものに違いない。
 また身体の痕跡としての線が、逆にその身体を引きずってゆくと
いう事態を、野田広人の痛みを帯びた線の重層に見る事ができる。
彼は自らの身体を介して、見えざる混沌と、見えるようになった混
沌とを往還させるなかに、定位しがたいイメージの震えを呼び起こ
すのである。
 館勝生の場合はイメージの出現はより劇的に訪れる。イメージの
拠り代としての形態は、決して与えられたものとしてあるのではな
く、おのずからなるイメージそのものとして見い出されているに違
いないだろう。そしてそれをもたらすストロークの強度は、再び闇
へと、今まさに送り返されようとする極点に一気に昇り詰める、言
わば絵画の悲劇性を切り拓いているのである。ここのもたらされた
それぞれの絵画の閃光は、慄然と我々を括つけるに違いないのであ
る。