1988.4 ギャラリー白 絵画論的絵画−力としてイメージ カタログ 尾崎信一郎(兵庫県立近代美術館学芸員) 80年代の前半に絵画が再び具体的なイメージを奪回したという 事実は今や否定できないだろう。むろんミニマリズムの劫火をくぐ りぬけたイメージはそれまでのように無垢ではありえないが、この 時苦闘の果てに回復されたイメージを当然の前提として臆面もなく 使用する多くの作家たちの中で、館勝生はあくまでもイメージの出 現という事態に拘泥する。ミニマリズムの束縛の中に胚胎するイメ ージという緊張を孕んだ瞬間を館は自己の絵画の中で追体験するの である。 したがって、茫然とした空間の中にほの白く浮かび上がる花弁や 裸身を思わす形象は、地と像の相剋やゲシュタルト理論といった事 後的な観点から語られるべきではないだろう。館の独特の画面構造 は、イメージの生成に立ち会うまさにその過程で得られたものであ る。そして、このような画面からしばしば連想されるシュルレアリ ズムの絵画から館は遠く隔たった地点にいる。なぜならイメージは 他の何かを指し示すのではなく、その生成として実現されているの である。このような画面からは、むしろバーネット・ニューマンが 初期に描いた生成や誕生の瞬間を主題化した一連の作品が連想され る。シュルレアリズムの絵画が過剰なまで物語を産出し、リオター ルの卓抜な比喩に従えば「絵画が言及する時間」を紡ぐのに対して それ以後のニューマンの絵画は「絵画それ自体としての時間」と化 し、一個の絵画的言明へと立ち至った。私が館の絵が時間化されて いると考えるのはこの意味においてであり、そこでは生成と出現、 持続と瞬間という矛盾した時間がそのまま作品と化しているのであ る。館においてイメージの背後に窺えるのは、フォーマリズム絵画 の主題である形式とは全く異なった絵画の在り方であり、それはミ ニマリズム以後のイメージの本質を考えるに際しても示唆的な発言 であろう。 |
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