2004.7 ギャラリー白,ギャラリー白3個展 案内状

尾崎信一郎(京都国立近代美術館主任研究官)

「館勝生の新作」

 館勝生の絵画は常に一つの緊張の相の下にある。イメージはいつ
もその極限において試されている。いうまでもなく緊張や極限とい
った感覚は今日流行する絵画にとっては忌避されるべき特質であり
雑誌やカタログをにぎわす安易なイメージの洪水の中にあって、館
の絵画は孤立した営みのように感じられよう。
 今日、日本の絵画においてイメージは多くがその根拠を外部に負
っている。アニメーションを転用する作家たちはいうまでもなく、
プライヴェートな物語や空想を臆面もなく開陳する作家たちにとっ
てイメージとは自分たちに先行し、存在することが自明のなにもの
かであり、その編集の巧拙が意識されることはあっても、その在り
方自体は自覚されることがない。ポスト・モダンの悪しき相対主義
をアリバイとして既成のイメージのリミックス、カットアップこそ
が創造である公言してはばからない者達の作品を前に私は既視感と
徒労感しか感じることができない。これらの画家たちは最初から絵
画、イメージの本源について考えることを放棄している。
 80年代中盤、ニューペインティングの登場と時を同じくしてデ
ビューした館が、当時華々しく活躍した「画家」達の無残な凋落の
後も質の高い絵画を描き続けている理由はひとえに館の探求がイメ
ージの本源に直結している点に求められよう。
 かつて館は暗い背景の中にバイオモルフィックなほの白い形態を
浮かび上がらせて、一種のエピファニー(顕現)を連想させる独特
の画面を構築していた。これに対しこの数年続けられている試みに
おいては、白く地塗りされた画面の一部に叩きつけられたような青
や紫の絵具が付着し、色調はネガからポジに反転したがごとき印象
を与える。同時にかつて花弁や昆虫との類比を許したイメージは即
物化され、時に画面から大きくせり出た絵具の塊はきわめて物質的
な印象を与える。付着した絵具と飛沫の跡を果たしてイメージと呼
ぶことができるか。できるとすれば物質はいかにしてイメージにな
るのか。館の近作の主題はかかるイメージと物質の臨界点の探求で
あり、そこには明らかにミニマル・アートと共通する、しかし逆向
きの問題意識が認められる。イメージを限界に向かって削ぎ落とす
館の手つきは、手ごろなイメージを引用することで事足れりとする
画家たちの放縦の対極にある。
 それでは館の新作において物質はいかにしてイメージへと昇華す
るのか。新作において絵具というメディウムからその表現性があた
う限り剥奪されている点に注目しなければならない。昨年の個展で
発表された作品においては同様の手法が用いられながらも、引き伸
ばされた絵具が示す方向が画面に一種の構図性を与えていた。しか
しもはや画面を構成しようとする配慮は放棄され、絵具はかたちへ
と転じないし色彩にも転じない。絵具はいかなる外部との類比も許
さない。館の近作は類似性というコードを禁じることによって絵画
のもう一つのコードを探っているように思われる。それは因果性と
いう原理だ。カンヴァスの上の絵具はたとえなにものにも似ていな
いとしても画家の手によって置かれたという理由によって一つの意
味を獲得する。例えばヴィレム・デ・クーニング、ロバート・ライ
マン、ソル・ルウィット。資質も表現も全く異なったこれら三人の
実践がいずれも優れた作品たりうる理由は筆触や色面をとおしてう
ちたてられるこのような探求によっている。
 因果律とは時間的な関係とみなすこともできよう。これまでも何
度か私は館の絵画を時間との関係において論じた。過去と未来のは
ざま、絶対的な現在の中にとどめられるイメージ。初期の作品に実
現されたほの白い形象が、このようなイメージをなんらかの似姿と
して提示しようとする試みであったとするならば、極度に研ぎ澄ま
され、もはやいかなる連想も結ばない新作をイメージの顕現という
事件を絶対的な現在の中にとどめた一つの痕跡と呼ぶことはできな
いか。