1994.4 ギャラリー白 テキスト

那賀裕子+貞彦(美術評論)

 ステラのように多重に平面を重ねてレリーフペインティングをつ
くるのではないとしたら、我々の時代の新しい絵画づくりというの
はいかにすればよいのだろうか。’80年代に「過剰なる絵画へ」
の意志によって、「図」の上に「図」を重ねようとして(ステラの
場合は色帯と色帯を重ねようとして)必然的にレリーフ化してしま
ったのではあるが、また別のいくつかの方法論も試みられてきたと
いえる。
 そもそも絵画というのは、ヌードや花鳥等の見るべき図像である
「図」に対して、背景としての「地」(=非存在の、つまり空間)
を描くか、あるいは抽象的なパターンのような色彩の「図」を見せ
る場合であっても、やはり背景としての「地」(=もうひとつの色
彩)を描く必要があった。しかし、’50年代のアメリカにおける
新しい絵画の成立以降は、もはや見るべき「図」(=存在か、形態
か、色彩か、線か)に対しての、「地」(=空間か、平面か、表面
か、全面か)を仕込めばよいというわけにはいかないのである。画
面の全面(オールオーバー)にひろがる強烈な「図」のみで成立す
るポロックやスティルの絵画においては、全く上の意味での「地」
というのは意味をもたず、またロスコのようなおぼろげにひろがる
色彩の場(カラーフィールド)の絵画においては、逆に見るべき色
彩の「図」でなく、ほとんど色彩の「地」のみが存在するというこ
とになる。
 背景の「地」を完全に無化して、(例えばシェイプドキャンバス
によって)「図」の上に「図」を重ねるというのは、ポロック以後
の新しい絵画作りのひとつの展開ではあったが、必ずしもその方法
論だけが唯一のものではない。
 イメージ(映像ではなく、線の画像)という「図」を、やはり、
「地」をつくらずに、直接表面に二重化するいう方法論をみせたに
は、シュナーベルなどの、’80年代に入ってのニューペインティ
ングである。
 館勝生は、はじめ昆虫とかウツボカズラとかのイメージの「図」
を見せるかのようにやはりペインティングの過剰化を進めていった
のではあるが、ひとつの時点で、その「地」が思わぬ喚起力をもち
始めたといえる。あたかも伝統的な日本絵画の「余白」の空間のよ
うに、まさに「地」としての色彩の表面そのものが見せられるので
ある。ロスコの「地」としての色彩を「図」にするというのではな
いが、やはり特有なイメージを「図」とする「地」であって、余韻
とか情感といったものをはらんでいく「余白」のような、まさしく
「図」と等価な「地」であるといってよい。
 ここにきて垂直のストロークを走らせての、絵の具の薄塗りによ
る「地」のひろがりが顕著になりまた、危ういイメージの「図」の
中にはなまめかしい色彩が入ったり、あるいは細い白い線がイメー
ジの際どさを増したりしているのが見て取れる。もともとマニエリ
スティックな筆使いとしてはじまった館のペインティングはそのマ
リエリスム段階に入りつつあるというのであろうか。’80年代以
後の新しい絵画の形式の中で、館のペインティングが新しい相貌を
見せ始めているのは確かである。