1993.11 ギャラリーαM個展 カタログ

高木修

「瞬時的絵画の生成」

 館勝生の絵画には何かが停止していると同時に落下するといった
イメージがあるように思えてならない。例えばフランシス・ベーコ
ンの絵画「〈法王イノセント10世の肖像〉にもとづく習作」(1
953年)を想起するだろう。あの垂直に走るストロークは、法王
の〈叫び〉とともに画面に振動を与えており、しかも「〈法王…〉
…」の場合、茶系統の色彩が渇いているとともに、筆のタッチがか
すれ内から外へと響きわたっている。またストロークや色彩を見れ
ば、「2人の人物」(1953年)の背景に近いように思われる。
特に、館の作品「unspeakable gift」(1992
年)などは、その暗褐色の筆勢と相似している。だが館の場合ベー
コンの聾動的絵画に見られる存在のねじれや時間の厚みはなく、む
しろ〈停止した時間〉、あるいはG.パシュールが言うような〈尺
度に従わない時間〉、……〈水平的〉に逃げ去ってしまう普通一般
の時間と区別するために特に〈垂直的〉と呼んでみたい時間を絵画
の中に見ることができよう。
 しかも、館の絵画が新鮮に見えるのは、古いタイプの抽象絵画の
〈へばりついたような塗り〉から解放されているためである。日本
特有の厚塗りをもって色彩の豊かさを表すといったアナクロ的な手
段とは異なっている。もちろん館自身も、1989年までは絵の具
を厚塗りしていた。このことに対しては館は〈絵の具の物質面ばか
りが強くなり、本来のイメージを形容するものである形態、色彩、
それが違う方へ〉とずれてしまったことについて述懐している。が
故に、そのような余分な要素をそぎ落としてきた。
 そうしたそぎ落としていく作業は、ストローク、マティエール、
形態、色彩といった作用子のどの部分にも比重が置かれることなく
画面全体に合一するように等価なレヴェルで扱われている。それ故
マティエール主義になることはないのである。むろん、ストローク
やマティエール、形態、色彩を含んだ手の〈運動〉の中でこそ−速
度、持続、瞬間、生成、消滅などといったものが画面に放射される
のだ。
 そして、館のこの絵画を特徴づけしているのは瑞々しい〈官能性
の色彩〉ではなかろうか。このことは、絵の具が生々しいといった
ことではないのである。つまり私が言う〈官能性〉とは、生成する
絵画=瞬間を指している。つまりパシュール的に言えば行為とは何
よりもまず〈瞬間〉における決心というべきものである、というこ
とだ。
 館は、〈生成されるイメージをできる限りストレートに画面に定
着させるためには、当然短時間に作品を仕上げなければならない〉
〈制作する時間的な経緯が長くなれば、描く瞬間にあるイメージが
衰退してしまうのではないかという恐怖心が常にある〉という。こ
のことは瞬時的なイメージを即座に画布に定着させたいという欲動
に他ならない。つまり、この瞬時的絵画の生成は〈イメージの生成
と手の活動とがあるいは同時に進行する〉(金田晋)のである。逆
説的な言い方をするならば、私たちが常に思うがまま絵を描くこと
ができないのは、イメージの生成と手の活動がずれを引き起こすか
らだと言えよう。
 館の新作絵画には蝶が羽化する過程にも似通っている。それもス
トップモーションのように残像を残しながら瞬時的に浮き上がって
停止しているという状態なのだ。そして図も地も〈より明るく(モ
アブライト)〉、〈より暗く(モアダーク)〉が同時に描かれ、と
もに垂直に溶解し始める。