1991.9
永井祥子ギャラリーSOKO個展 カタログ

谷川渥

「館勝生−内界の形象」

 館勝生の作品を前にして与えられる最初の印象は、それが内界と
でもいうべきものに関わっているということだ。その画面は意識を
決して外界の対象へと差し向けない。つまり彼の絵は、例えばモン
ドリアンの「樹」の連作のように外界の実在的対象が認知的特徴を
徐々に失って、ついにそこに線的形象からなる「抽象絵画」が、め
でたく出来上がるというのとは逆に何か定かならざるもの、形なら
ざるものが、定かなものになろうとする、形をとろうとする、その
束の間の場面を捉えることに関係しているということである。「抽
象絵画」について流布された幸福な物語とは逆を行くこうした方法
のうちにこそ、館勝生の独自性があるといっていい。
 上下を走る垂直のストローク、そのストロークに抵抗し時にそれ
を遮断する比較的明瞭な色相、タッチの疎密、そして色相の微妙な
変化、それらがその内密な世界を織りなす絵画的要素である。画家
の多用する暗緑色、ないし暗褐色と乳白色との対比は必ずしも地と
図、あるいは後景と前景という意味の差異を生み出しはしないが、
それでも我々の意識の自然の趨勢によって自ずからそこで闇と光、
あるいは質料と形相の対比とのメタフォリックな関係を取り結ぶこ
とになる。それゆえ画面は、例えてみれば丁度夜闇のなかにあって
目には見えなかった何ものかに雨があたり、その輪郭がおぼろげに
浮かび上がるような様相を帯びる。あるいは深海の中で発光し始め
たゾーン(場)が、それ自体何かの形をとろうとするような様相を
帯びるといってもいい。それは画家自身の言葉を用いれば、石彫の
ようにまわりを削っていくことでイメージを浮かび上がらせるとい
うことになろう。いずれにせよ、そこでは密度の高い質量性のただ
なかでの形象の未だあえやかな胎動が問題になっているのだ。とす
れば夜、闇、海といった言葉でさしあたって暗示するほかなかった
この質量的なるものを、あえて子宮という言葉で呼ぶこともできる
だろう。暗緑色や暗褐色はすぐれて子宮内部の色なのだ。それは我
々がそこから出発し、そして回帰することを夢見るところの色、我
々を深く沈静させる色である。内界の印象を与えるといった所以で
ある。
 画面に胎動するイメージが、自ずから「有機的」な様相を帯びざ
るをえないのも、したがって当然の事態である。それは草、花、昆
虫の羽など、いろいろな言葉を引き寄せるだろう。画家自身もおそ
らくはあとから思いついた言葉をタイトルとして用意するだろう。
こうした言葉とイメージとの照応に煩わされる必要はない。両者の
あいだにはもともと不可避な距離があり、そしてこの場合、そうし
た距離を遊ぶことも絵を見ることの必然的な契機として含まれてい
からである。東京での初の個展は、このまぎれもない個性の豊穣な
可能性を我々に確信させてくれるにちがいない。